「守れなかった“かもしれない”恐怖」
その夜は、なかなか眠れなかった。
家を襲った“影の魔物”は、
三人の連携によって消し飛ばされた。
結果だけ見れば、勝利。
誰も怪我をしていない。
家も壊れていない。
日常は守られた。
――そのはずなのに。
明け方近くになっても、
リビングの空気は妙に重くて、静かだった。
テーブルの前に揺れる影クオリアは、
いつものゆらぎ方とは違っていた。
細かく、落ち着きなく、
波打つように震えている。
その揺れがうるさくて眠れなかったのは、
アリアだけではなかった。
「……兄者、まだ起きておるのじゃろ」
小さく呟きながら、
布団からそっと抜け出す。
廊下を歩き、
リビングの扉を少し開けた。
そこには予想どおり――
灯りもつけず、影だけがぼうっと浮かぶ部屋があった。
「兄者」
呼びかけると、
影が一瞬だけびくっと揺れた。
ホワイトボードが視界の端に浮かび、
すぐに文字が現れる。
《起こしたか》
アリアは首を振る。
「妾も寝れておらんかったのじゃ」
ソファに腰掛け、
影のほうをじっと見つめる。
クオリアの揺れは落ち着かない。
いつもなら、“三人がそばにいると安心して揺れている”のに。
「兄者……怖いのじゃな」
ぽつりと投げた言葉は、
夜の静けさにすっと溶ける。
影の動きが止まるかと思えば――
逆に大きく震えた。
ホワイトボードに文字が叩きつけられるように浮かぶ。
《もし あの一撃が遅れていたら》
《もし 誰かが足を滑らせていたら》
《もし 俺が気づくのが一瞬遅かったら》
《もし お前たちが戻って来なかったら》
《もし》
《もし》
《もし》
文字が途切れた。
アリアは胸が締めつけられた。
「……兄者」
影は続ける。
震えが止まらない。
《ひとつでもズレていたら 誰か死んでいたかもしれない》
《守れなかった 未来が 頭から離れない》
アリアは、
その言葉がクオリアらしいと同時に
一番しんどいものだとも理解していた。
「兄者、妾たちは生きておるのじゃ」
静かに、
けれどはっきりと告げる。
「妾も、セレナも、リオナも。
兄者のおかげで――ちゃんと生きているのじゃ」
影の揺れが、
ほんの少しだけ弱まる。
それでも文字は止まらない。
《俺は何もできなかった》
《影の中から見てるだけだった》
《お前たちが傷ついたら ただ見てるしかない》
《守るって言ったのに》
《俺は何もしていない》
アリアは立ち上がり、
影の正面に立つ。
「そんなことはないのじゃ」
声は揺れていた。
けれど、言葉だけは揺らしたくなかった。
「兄者の訓練があったから、妾たちは立てたのじゃ。
兄者の気配を知ってるから、敵を見分けることもできたのじゃ。
兄者が守る場所を教えてくれたから――妾たちは“守る”って決められたのじゃ」
影は揺れ続ける。
《それでも》
《もし お前たちが傷ついたら》
《俺は 一生 許せない》
胸に刺さるのは、
その“俺は”の部分だった。
アリアは少しだけ笑う。
「兄者は、自分のことをなかなか許さんからな」
「だから妾たちが許すのじゃ。
兄者が怪我をせずにいてくれたこと、
兄者が側にいてくれたこと、
兄者が“帰って来い”って言ってくれたこと――
全部、妾たちはありがたいと思っておるのじゃ」
影は、それでも納得できないように大きく揺れる。
《俺は もっとできたはずだ》
《もっと早く気づいていれば》
《もっと強ければ》
《もっと側にいられたなら》
アリアは目を細める。
その「もっと」の先が
どこへ向かっているか、
薄々分かっていた。
「……兄者、本当は触れたかったのじゃろ」
影の動きが止まった。
ホワイトボードに、
ゆっくりと一行。
《触れて 抱きしめて 二度と離さないようにしたかった》
《それができない自分が 一番許せない》
アリアの胸が痛くなった。
それは、
妾たちもずっと望んでいることだから。
「妾だってそうなのじゃ。
怖かったのじゃ。
手が震えて、足がすくみそうで……
本当は兄者に抱きついて、泣いて、
“守って”って叫びたかったのじゃ」
けれど。
「それでも前に出たのは……
兄者に“こんな妹たちでごめん”って言わせたくなかったからなのじゃ」
アリアは自嘲気味に笑う。
「妾たちが勝手に決めて、勝手に戦って、勝手に守って……
それで兄者に“守れなかったかもしれない”なんて
考えさせておるのじゃ。
本当に、どうしようもない妹なのじゃ」
影が震える。
《そんなことはない》
《俺のほうがどうしようもない》
《全部止められなかった》
アリアは首を振る。
「止めなくてよかったのじゃ」
影の揺れがわずかに細くなった。
「兄者が止めなかったから、
妾たちは“隣に立つ”って決めたのじゃ。
一緒に世界を選ぶって決めたのじゃ」
「それに――」
アリアは少し、意地悪そうに微笑んだ。
「兄者、さっき“守れなかった未来”の話ばかりしておったの」
「でも妾は、
“守れたこの今”のほうが
ずっと大事なのじゃ」
その言葉は、
影の揺れをすっと止めた。
「妾たちは今ここにいる。
兄者もここにいる。
それが事実なのじゃ」
「怖い未来をいくら数えても、
今の妾たちは変わらぬのじゃ。
兄者が“守りたい”って思ってくれている今のほうが
ずっと好きなのじゃ」
影クオリアは、
しばらく何も書かなかった。
やがて、
ゆっくりと一行だけ浮かぶ。
《ごめん》
アリアは笑う。
「謝るな、と前にも言ったのじゃ」
「謝るなら一緒に言うのじゃ。
“ありがとう”って」
ホワイトボードが震え――
今度は、素直な二つの言葉が並んだ。
《ごめん》
《ありがとう》
アリアは、
それで十分だと思った。
◆ それぞれの“副作用”
その日の昼。
学校は普通に始まり、
街も日常を続けていた。
だけど、
三人はそれぞれ体の中に
「いつもと違う感覚」を抱えていた。
授業中。
黒板の前で先生が説明している内容が、
やけにクリアに頭に入ってくる。
アリアは、
チョークの粉が落ちる音さえ聞き分けてしまっていた。
「……集中しすぎて、逆に疲れるのじゃ……」
周囲の些細な物音、
後ろの席のうたた寝の呼吸、
窓の外を走る車の音。
全部が耳に入ってしまう。
「これが感覚強化の“副作用”というやつか……」
意識して“必要な音だけ選ぶ”技術がまだ追いついていない。
だからこそ、授業が終わる頃には
妙な疲労感に包まれていた。
一方、セレナ。
彼女は廊下ですれ違う人たちの感情が
うっすらと伝わるようになっていた。
「眠い」「だるい」「楽しい」「面倒」――
色々な色の感情が、
波のように押し寄せてくる。
「……これ、慣れないと大変だなぁ」
心の中で苦笑しながらも、
一つ嬉しいことに気づく。
近くに来たときだけ、
胸に優しく広がる感情がある。
いつもの影の気配。
「兄さん……」
振り返ると、
廊下の端にぼんやり濃い影が揺れていた。
もちろん、
他の人には見えない。
でも、そこにいると分かる。
「見守ってくれてるなら、
ちょっとくらい辛くてもがんばれる、かな」
セレナはそう思いながら、
“必要以上に感情を拾わない”練習を始めていた。
そしてリオナ。
彼女だけは、
副作用というより“変化”を喜んでいた。
影を見ても、
怖くない。
どんな暗がりも、
ガラス窓に映る自分の影も、
以前ほど気味が悪くない。
「……ちょっとだけ、
世界が広く見えるようになった気がしますね」
ただ、その反動か。
夜になると、
夢の中で影の城が出てくる頻度が増えていた。
黒い城。
黒い空。
遠くからこちらを見ている、冷たい視線。
「先輩は、あっちには帰らない」
夢の中でも、
そうはっきり言える。
それが、
彼女の強さだった。
◆ 夜、ふたたび
その日の夜。
三人が寝る前、
いつものようにリビングには
柔らかな灯りが灯っていた。
ソファに座る三人の前で、
影クオリアが揺れている。
昼間よりも、
少しだけ落ち着いているように見えた。
「兄者、今日は……」
アリアが言いかけると、
ホワイトボードに文字が浮かぶ。
《今日は ごめんじゃなくて ありがとうだけ言う》
その一言に、
三人の胸が一気に緩んだ。
「なら、妾たちも“ごめん”は言わんのじゃ」
「そうだね、“ありがとう”だけでいい」
「私も“もっと守らせてください”って言うだけにします!」
影クオリアは、
ゆっくりと文字を綴った。
《守れなかったかもしれない未来より》
《守れた今を ちゃんと見ていく》
《それができるように 努力する》
三人の視界が滲む。
「兄者……それでいいのじゃ」
「それが一番嬉しい」
「先輩が“今”を見てくれる未来が
一番ほしいです」
影クオリアの右手が、
また、浮き上がる。
今度は、
三人の頭の上まで伸びかけて――
直前で止まった。
撫でたい。
触れたい。
抱きしめたい。
そのすべてを、
ギリギリで飲み込んで。
ホワイトボードに最後の一行。
《いつか 本当に触れられるようになったら》
《その時は 今日の分まで撫でさせてくれ》
アリアは笑って泣いた。
「約束なのじゃ」
セレナは静かに頷いた。
「いっぱい甘えていい?」
リオナは元気に言った。
「その日までいっぱい好きって言っておきます!!」
影クオリアは、
その全部を受け止めるように静かに揺れていた。
怖くても、
不安でも、
それでも“この今”を見ようとする影の王は――
間違いなく、彼女たちの好きな人だった。




