「初恋の記憶」
夕飯の後、
アリア、セレナ、リオナの三人は自然とリビングへ集まった。
クオリアの席を囲むようにして座るのが、
すっかり日常になっていた。
テーブルの上には湯呑みが四つ。
一つは、影のクオリアの席に。
湯気が立っているはずのない一杯から、
ほんの微かな温もりの“気配”が漂っている。
アリアがぽつりと言った。
「兄者の名前を……最近、前より自然に呼べるようになったと思わんか?」
セレナが静かに頷いた。
「うん。前までは呼ぼうとしても喉が詰まってた。
言ったら……消えちゃう気がして」
リオナは少し照れた笑みを浮かべた。
「でも今は……呼びたい気持ちが、呼ぶ怖さに勝ってきてる感じします」
三人の視線が、影のクオリアの席へ向く。
影は黙って揺れ、
聞いている。
沈黙が落ちたあと、
アリアがぽつりと呟く。
「最初に兄者のこと好きになったのは……いつだったかな」
その声は寂しさでも照れでもなく――
大切な宝物を抱きしめるような響きだった。
セレナも小さく息をつく。
「……私も覚えてる。ちゃんと、今も」
リオナはいつものテンションを抑え、静かに言う。
「先輩に“恋した瞬間”は、忘れられるわけないですもん」
影のクオリアが揺れ、
まるで「聞かせてくれ」と促すようだった。
三人は自然に語り始めた。
◆ アリアの初恋
「兄者を好きになったのは……
兄者が妾の泣き声を聞いて走ってきてくれた日なのじゃ」
アリアは昔の光景を思い出すように目を細めた。
「妾、怖くて泣いて、誰も気づいてくれなくて……
でも兄者だけはすぐに駆けつけて、抱きしめて、
“泣くほど怖かったなら、怖くていい”って言ってくれたのじゃ」
彼女の声は震えていた。
「あのとき……妾は初めて、誰かに守られた気がしたのじゃ。
だから好きになった……一生、好きのままなのじゃ」
影が揺れ、
兄らしく優しい色を帯びた。
◆ セレナの初恋
「私は……クオリア兄さんが私のミスをかばってくれたとき」
セレナは視線を落とし、
小さく微笑む。
「私、失敗して大勢に責められて……
怖くて、息もできなかったのに……
兄さんは“怒りたいなら俺に怒れ”って言ってくれて」
声が震える。
「その日から、世界が怖くなくなった。
だって兄さんが味方でいてくれるなら、それだけで安心できたから……
そのときから、ずっと兄さんが好き」
アリアがセレナの背をそっと撫でた。
影の席の影が寄り添うように揺れた。
◆ リオナの初恋
リオナは普段のふざけた笑顔ではなく、
本当に恋をしている顔で語った。
「私は……先輩に“生きてていい”って言われた時です」
声は震えているのに、目は強かった。
「全部うまくいかなくて……誰からも必要とされないと思ってて……
消えたっていいって思ってたのに……」
涙がひとつ落ちた。
「先輩が笑って言ったんです。
“お前がいなくなったら俺が悲しい”って」
そして微笑む。
「その瞬間、全部救われた。
好きにならない理由なんて、どこにもなかった」
リオナの声が途切れた瞬間――
影が強く揺れた。
まるで涙のように、
輪郭が滲んだ。
しばらく誰も喋らなかった。
アリアが、そっと笑う。
「妾たち三人とも……クオリア兄者に救われたのじゃな」
セレナもうなずく。
「だから今度は、私たちが救う番だよね」
リオナは涙を拭きながら笑った。
「先輩の影でも、現実でも、戻ってきても戻れなくても……
全部好きでいるから」
影のクオリアの席に置かれた湯呑みが、
かすかに震えた。
そしてホワイトボードに文字が浮かぶ。
《名前で呼ばれたら 嬉しい》
三人は息を呑んだ。
それは
“自分でも気づかずに書いた衝動”
のように見えた。
アリアの声が震える。
「……兄者……怖くないのか?
名前を呼ばれたら……近くなりすぎてしまうのに……」
セレナも涙を落としながら問いかける。
「クオリア兄さん……近づくのは、怖くない?」
リオナは胸に手を当てたまま静かに言った。
「どうして“名前を呼ばれたい”って思ったんですか……?」
影は揺れる。
迷っているように、震えているように。
そして――
ゆっくり文字が書かれていく。
《触れられない距離でも 名前で呼ばれるだけで“そばにいる”気がする》
三人は、泣いた。
アリア:
「兄者……呼びたいのじゃ……ずっと名前で呼びたい……!」
セレナ:
「クオリア兄さん……私も名前を呼びたい……
怖いけど、呼びたい」
リオナ:
「先輩……名前で呼んだら壊れちゃうかもって思ってたけど……
壊れるより“遠いまま”のほうが怖い」
三人は互いの手を取りながら
影の席を見つめた。
そして――
「「「クオリア」」」
三つの声が重なった瞬間、
影が大きく揺れ――
まるで抱きしめ返すように、
三人を包んだ。
触れていないのに温かい。
触れられないのに確かに抱きしめている。
名前が――
四人の距離を縮めた。
距離はまだ届かない。
けれど、心はもう離れない。
その夜、三人は影のクオリアの席のそばで眠った。
影は朝までそこにいて、
音もなく、
言葉もなく、
ただ幸せそうに揺れていた。




