「帰ってきた“兄の味”」
翌日の夕方。
学校帰りの三人は、玄関を開けた瞬間に戦慄した。
キッチンから漂う“完璧な”夕飯の香り。
煮物の優しい出汁、焼き魚の香ばしさ、
味噌汁の湯気の温度までもがぴったり“家庭の最適値”。
そしてなにより――
テーブルの席が 4人分 用意されている。
銀髪の妹が震えた声で息を吸い込む。
「……兄者……帰ってきておるのじゃ……」
黒衣の女が席を観察して言った。
「兄さんの席が“いつもの位置”です。
椅子の角度、箸の置き方、湯呑みの向き……
兄さんの癖と一致しています」
ストーカーは既に感極まっていた。
「先輩が家事に全ステータス振っている……!!
最強の男の帰還です!!」
全員、無言で“兄の席”の前に立つ。
そこには、
座る人間の重みを感じさせる凹みが残っていた。
まるでつい今まで、誰かがそこに座っていたかのように。
その時だった。
まな板がカツン、と軽く音を立てて“揺れた”。
見えない手が、そこに触れたように。
鍋の湯気が揺れる。
味噌汁の蓋がわずかに浮く。
フライパンが余熱処理の角度に回される。
誰もいないのに――
料理が“締めの仕上げ”に入っている。
銀髪の妹は涙が出そうになった。
「兄者……まだここにおってくれたのじゃな……」
黒衣の女は静かにうなずく。
「兄さん……最後の一手だけ残して、待っていてくれたんだと思います」
ストーカーは震えながら微笑んだ。
「“いただきます”を、私たちと一緒にしたい人なんですよ……先輩は♡」
その時、
味噌汁の器がひとつだけ――ゆっくりと席へ移動した。
“兄の席”だ。
影のクオリアが、
そこに座り、箸を手にして――
食卓を囲む4人になったのだ。
三人は、
影に向かって同時に深呼吸した。
そして――
「「「いただきます」」」
影の味噌汁の湯気が、
ほんの少しだけ揺れた。
まるで「いただきます」と返事したように。
食事が始まると、三人は無言になった。
・煮物は薄味で優しい
・焼き魚は皮がサクッとする温度のまま
・卵焼きは甘さを控えて出汁で整えてある
全部、
クオリアが家族の好みを理解し尽くした味だ。
銀髪の妹が一口食べた途端、
箸を持ったまま固まった。
「……これ……兄者が……妾のためだけに前に作ってくれた味なのじゃ……」
黒衣の女も、静かに涙を落とした。
「兄さん……“各自に合った味”にしてます……
私の煮物は……濃い味大好き仕様です……」
ストーカーは手で口を押さえながら震えていた。
「先輩……私の茶碗だけご飯多めなの……
“おかわりするのわかってるぞ”って顔してるの……はぁ……好き……」
影のクオリアは、何も言わない。
でもわかる。
“食べてほしかった”
“喜んでほしかった”
“家族でいたかった”
全部そこに詰まっている。
一通り食べ終わると、
銀髪の妹が突然席を立った。
そしてキッチンへ。
まな板の前に立ち、
包丁を握った。
「兄者の味を……妾も作れるようになりたいのじゃ……」
涙でぐしゃぐしゃの顔で、
それでもまっすぐな瞳。
黒衣の女も袖をまくる。
「兄さんの味を“私の手で守る”ために、覚えたい。
家族の味は、受け継いでいいはず……」
ストーカーは鼻をすすりながらエプロンをつけた。
「先輩の味が消えないように、
私も努力したいです……
“好き”で終わりたくないんです……」
三人は並んで立つ。
涙を拭いもせず――それでも笑っていた。
影のクオリアが揺れ、
そっと鍋の蓋を持ち上げる位置を示す。
銀髪の妹が真似する。
成功。
黒衣の女が出汁の味の調整を試みる。
成功。
ストーカーが卵を巻く角度を再現する。
成功。
誰も言葉を発さないまま、
ただ影と三人が料理を通して“会話”していた。
やがて、三人の手料理が完成した。
味は完璧ではない。
でも確かに“兄の味”を目指した味がした。
三人は自分たちの作った皿を、
クオリアの影の前にそっと置いた。
銀髪の妹が泣き笑いで呟く。
「兄者……妾たちも……兄者の味を守るのじゃ……」
黒衣の女が優しく言う。
「兄さんの居場所は、ここです。
影でも人でも……帰ってきてかまいません」
ストーカーは一番柔らかい声で言った。
「先輩……ここにいてください。
ずっとでいいです」
影は揺れ――
そして、座椅子にゆっくり腰を下ろした。
席は四人のまま。
“家族の食卓”が、
当たり前のように戻っていた。
やがて時刻は夜。
三人が風呂に入って寝る準備をする頃、
リビングの照明がそっと落ちる。
暗闇の中で、
影のクオリアだけが座っていた。
息遣いも音もなく。
ただ三人を見守り続けて。
――会いたかった。
――触れたかった。
――守りたかった。
その願いが、誰にも届かない夜の光に滲む。
でも、
三人の寝息が聞こえた時――
影は一瞬だけ、幸福に揺れた。
触れられなくても、
寄り添えなくても、
声をかけられなくても、
一緒にいられる、それだけで“今は”幸せだった。




