森をかける狼
「若者の精霊離れが深刻と聞いてはいたがこれ程とは……我が現役で野山を駆け巡っていた頃は子供と精霊が手を取り合って踊り合っていたというのに。なんと嘆かわしい事か」
「えぇ……」
身に覚えのない事で、と言うよりは御伽噺ではこうだったのにと理不尽に攻め立てられた少女は困惑した。
少なくとも大人が自分を叱る時は何かしらの非がある時で、覚えのない事で叱られたとしても反論するだけの知恵は持っているつもりだった。
しかし御伽噺を盾に叱られるという、それも大人ではなく狼に叱られるという前代未聞の状況に対して反論するだけの気概は持ち合わせていなかった。
「あの……精霊って……」
「なんと、精霊の存在も知らぬと申すか……? 」
「いえ……精霊って御伽噺じゃ……」
「っかー、なんという事か。もはや御伽噺だというか。お? なんだまだおったのか。聞いての通り、御伽噺だそうだぞ、風の」
あなたも御伽噺ですよ、とはさすがに続けることができなかった少女を責める者はいない。
たとえ彼女の両親がこの場に揃っていたとしても、同じように茫然とその光景を眺めていただろう。
「そうなると……今外界はどうなっとるんだ。精霊の力も借りずに……ふむ、馬車は現役とな。暖炉も現役……なんと、都会はそのようなものが出回っておるのか。ほほう……興味深いが……しかし精霊を忘れる時代か……老いたものよ」
世俗に置いて行かれた老人が似たような言葉を口にしていたのを聞いたことがある。少女はなんとなくそんな事を思い浮かべた。
わしらの若い頃はと言ってきかない老人達だ。
町の外に広がる畑の一角ではそのような光景がよく目撃される。
若い頃は道具が壊れようとも、牛がいなくとも、荷車が無くとも、と無茶な事ばかり言っていた彼らを、少女は笑う事はないだろう。
それ以上の理不尽を見てしまったのだから。
「うーむ……そうなると我がじかに送り届けては大事になりそうだのう……」
それに関しては時代関係なく大事だ、というのも言葉に出さない。
子供はこうして知らぬ場所でいらぬ事のついでに処世術を学んでいく。
森から帰った少女は一皮剥けたと言われるようになるだろう。
もしくは少女にとってかわった何者かと言う扱いになるかもしれない。
「しかし、約束した手前いかぬわけにもいくまいて……致し方ない。娘よ、水を飲んでおけ。ついでに手も洗うのだ。我が毛並みを果実の汁で汚されようと怒らぬし毛づくろいの時に甘味を感じるかもしれぬが、べたつくのは好きではないのだ」
「あ、はい」
言われた通り池で手を洗ってから、掌を器代わりにして水を飲む。
その様子を見ていた狼も隣で水を飲み始めた。
少女は見ていなかったが、尾の一本が先ほどの果実がなる木の枝を一つ切り落として掴んでいた。
いつの間にか尾が枝を掴んでいたことに驚いた少女だったが、茫然としていると尾が少女にまとわりつき、そして狼の背中に押し付けられていた。
「舌をかまぬようにな」
グッと口をつぐんで小さく頷いた少女、それを見て満足したのか狼は池に背を向けた。
そして一瞬身体を沈めたと思った次の瞬間、跳躍した。
「目を開けてみよ」
思わず目を閉じた少女は、狼の言葉に従って目を開ける。
太陽の光が眩しい。
そう思ったのも刹那の事だった。
「うわぁ……」
眼下に広がるのは狼の大きな背中、深い森、そして森の向こう側に小さな町が見えた。
あんなに小さいものだったのか、それなら知らない人がいるのもおかしくはない、そんな事を考えながら少女は一文字に結んでいた口を綻ばせた。
「ふむ、初めからこうすればよかったな。周りに見える町はあれだけのよう……と言うよりも森が広がっておるな。昔はもっと狭かったのだが」
「そうなの……? 」
「うむ、我の寝床は森の中心にあったのだがな」
そう言って森の一部、切り抜かれたように緑が薄くなっている箇所を見つめた後に背後に広がる広大な森に視線を向けた。
広大な森、しかし若い木が多い、そう思うのは歳を重ねた狼故だろう。
「ほれ、一度地面に降りるからまた口をつぐんどけ」
「むぐっ」
狼の言葉通り、一瞬の浮遊感を覚えた少女は毛皮を握りしめた。
尾で固定されていなければ、体重の軽い少女は空へと放り出されていただろう。
着地に備えて力を入れた少女だったが、子供が跳ねるよりも軽やかに狼は着地して森を駆け抜けた。
木々が避ける様に、視界の端を通り抜けていく。
あまりの速さに目が回る思いをしながらも、少女は目を閉じる事はなかった。