助けられた少女
「……っ」
「起きたか、久方ぶりの話し相手と思ったのに随分と退屈な時間を味わったものだ。いやなに、数百年の間来ない物を待ち続けるよりも目の前の御馳走を待てと言われるのは長く感じるものだ」
饒舌な声の主は、しなる枝のようにゆっくりと身体を動かす少女に話しかける。
生きている、そう実感した少女の瞳からは涙が流れ落ちた。
「また泣くか、我の下に来るまで存分に泣いた様子だったが……人の子とは泣くのが好きらしい」
「私……」
「うむ、生きておる。そしてこれからお前の住んでいたところへと送り届けてやろう。なに再び日が沈むまでには家に帰れる」
その言葉に一度は押しとどめようとして、二度目は枯れ果てて、三度目は溢れだし、四度目にもう一度押しとどめようとした物があふれだした。
号泣というにも豪快に溢れるそれを、嗚咽を漏らしながらも拭い声の主に向き直った少女は別の涙を流すことになる。
先ほどまでの涙が歓喜ならば恐怖か絶望。
「なんだ、驚くのも好きなのか? 人の子はいつもそうだ、泣くか驚くか、たまに笑うかだ」
「お……おおかみ……」
少女の背後に立っていたのは一頭の狼だった。
それも普段見かけるようなものではない、大樹のような足を持ち、夜より暗い毛並みを持ち、いばらのように枝分かれした尾を揺らす様は猛獣と呼ぶにも桁が違う。
いうなれば怪物、さもなくば神だろう。
「うーむ……狼として生きていた時代もあったが今もそういってよいのだろうか。怪物とも呼ばれたし神とも呼ばれた。もはや我がどのような種に分類されるのかわからぬ。それこそ神のみぞ知るというやつであろう」
その怪物は流暢に言葉を紡ぎ出す。
狼の肉を食いちぎる為に鍛え上げられた口が、人の言葉を操っている光景に少女は意識を手放してしまいたくなった。
しかしそんな事をすれば、自分は二度と目覚めないだろうという予感を抱いて必死になる。
死を身近に感じているからこそ、生きる事に愚直だ。
「起きたのならば、何か口にするといい。生憎我は魔法なぞ使えぬ身でな……似たような事は出来るが加減が効かぬ故、火を起こすならば自分でやるがよい。肉がほしければ狩ってこよう。魚がほしければ直ぐに獲ろう。果実が良ければ捥いでこよう。選ぶがいい」
「え、あ、えっと……じゃあ果物を……」
「ふむ承知した」
そう言うや否や、狼はいばらのような尾を一振りした。
ゴウという音と共に、尾の先がぶれた。
少女の目にはそう写っただろう。
「約束の果実だ、昨日……覚えているかは知らぬが話した通り甘くて美味いのだこれが」
気が付けばいばらのようで、蛇のような尾はいくつもの木の実を掴んでいた。
それを少女に差し出した狼は動かない。
少女も動かない。
「どうした? 」
「…………あの」
「む? 」
「食べてもいいの?……ですか 」
少女の言葉に狼は一瞬、完全に動きを止めた。
時折陽炎のように揺らめいて、蛇のようにのたうち、草花のように揺れていた尾までもがぴたりと動きを止めた。
その様子にしまったと思った少女は、機嫌を損ねた狼に首を食いちぎられる姿を予想する。
しかしその時は来なかった。
「おかしなことをいう、これはお前のために捥いだのだが……いらぬのか? 毒なぞ入っておらぬし何も問題はないはずだが」
一度差し出した果実をじっくりと観察する狼の様子は、初めて見たそれが食べ物なのか確認しようとする犬の姿に似ていた。
実際少しの時をおいて狼はスンスンと鼻を鳴らし、ぺろりと果実を舐めていた。
それから池の水でじゃぶじゃぶと洗ったものを少女に再び差し出した。
「うむ、問題ないぞ」
「じゃあ……いただきます……」
そう言って、一口。
果実をほおばった少女は口を手で押さえた。
「な、なんだ。どうした」
「……甘い」
少女は甘い果実と言われて先日家から持ち出した果実のような甘さを想像していた。
しかし、今彼女が手にしている果実は蜂蜜のような甘さの物だった。
そして食感もまるで違う。
今まで口にしていた果実は石のように硬いものが多かったが、狼から受け取ったそれは顎に力を籠めずとも歯がするりと抜けていくような、どころか持っている少女が手加減をしなければつぶれてしまいそうなほどに柔らかかった。
「……甘すぎたか? 」
「とっても……おいしい……ぐすっ」
その味に少女は幾重もの感情を抱いていた。
一つは感動、これを甘味と呼ぶならば今までの物を酸味と呼ぶ事になるであろう食べ物との出会いに。
次に安堵、生きながらえたという時間を味覚で得ることができた。
最後に後悔、冒険心と言う誘惑に惹かれ危うく命を落としかけた事と自分を心配する者達への懺悔。
それらが一筋の涙となって少女の頬を伝った。
「……あまり泣くと、甘みが台無しになるぞ」
「はい……ぐすっ……えぐっ……」
狼の言葉を少女は受け止めた。
けれど、たとえ狼に泣き虫と言われようとも涙を止める事は出来ない。
赤子が泣くように、言葉の代わりに涙を流すように、少女はただ泣きながら果実をほおばり続けた。
狼はそれを我が子を慈しむ母のように、あるいは我が子をあやす母を見る隣人のように優しく見守っていた。
少女は口に果実を詰め込んでは、甘みを逃すまいと口を押え続けた。
「さて、そろそろ落ち着いたか。それで娘、お前の住処はどこだ? 名は? 」
「……あの」
「なんだ」
「私はどうなってもいいから町をおそわないでください」
「誰が襲うか、そんな面倒くさい」
あまりに失礼な言だったが、少女は言わずにはいられなかった。
この狼は自分の町の住民を襲う為、自分を助けたのではないかと言う疑問がわいたからだ。
以前猟師から狼は狡猾で獲物を巣に追い込んでから群れを丸ごと食い尽くす事もある、と言う話を聞いておびえていた。
そしてそんな言葉に、狼は気を悪くするでもなく呆れるでもなく、当然のように言葉を返した。
面倒くさいと。
「め、めんどうくさい」
「面倒だろうに、そんな事をして我に何の得がある。この果実より甘いものがそこにあったとしても我はやらぬぞ。我の天秤は甘味よりも平穏に傾く。こっちの水は甘いぞと誘われてほいほいついていくような性分ではないわ」
「そう……なの……? 」
「うむ、信じよ。そもそもお前を助けるだけならば果実を食わせる必要はなかっただろうに。この甘味は人に分けてやるには惜しいと思う、我の数少ない娯楽故な」
少女は思う、たしかにそうかもしれないと。
目の前の狼が言っている事を全て信じたわけではない。
けれども今自分が食べた果実の味は町で売ればそれなりの値段になるほどの物だった。
もっと大きな街で貴族に売れば商人であればお抱えに成れるであろうともいえた。
そんな人間の金銭感覚に関わらず、純粋な味だけで週に一度食べることができたら、どれほど辛いことがあっても生きていく糧になるほどだった。
それこそ、娯楽の1つとして見る価値があるだけの物。
それを他人に分け与える必要はない。
もし少女が口にしていた物が、この果実でなければ狼の事を疑い続けていただろう。
「……トアハの町です」
だから少女は目の前の狼を信じる事にした。
狼の言葉を信じて、町の名を口にした。
「トアハ……? 何処だそれは」
しかし返ってきたのはあまりに無情な言葉。
知らぬと切り捨てられた少女は一瞬何を言われたのかわからなかった。
少女の住んでいた町、トアハは田舎ではあったが行商人が立ち寄る町としてそれなりに栄えていた。
故に、知らないと言われる日が来るとは思わなかった。
町の外という物を知らぬ、年端もいかぬ少女ならではの思い込みではあるものの、少し地理にたけた者ならば知っていて当然と言える町だが、逆に言ってしまえば地理に疎い者には縁のない町だった。
「えっと……アイルの国の南の方で」
「ほほう、アイルの国とな。その名も知らぬな」
これに関してはもはや論外である。
しかし考えても見れば数百年、この狼は森に閉じこもっていた。
異教徒狩りの時代や、悪魔狩りの時代を越えて森の神として名を残していたのだ。
それだけの時間、外界との関わりを絶てば国の一つや二つ名を変えていてもおかしくはない。
「うーむ……致し方ないな。誰かおらぬか」
首をひねり、尾を振りながら狼は虚空に向かってそう叫んだ。
少女もそちらに顔を向けるがやはり誰もいない。
「おぉ風の、久しいな。久方ぶりに客人が来たのだが……なに? 別に食うつもりなぞないわ。御馳走がどうのこうのと言ったのは物の例えであってだな、うむ、うむ、そういっておるだろうに。ほれ、世俗に詳しいお前なら知っておるだろう。何だったか、アイルの国トアハの町とはどこだ……だから襲うか面倒くさい……まったく、うむ、此処から東か。あいわかった。機会があれば礼をしよう」
しばらく虚空と何やら会話を続けていた狼は、少女に向き直った。
先ほどよりも尾が大きく素早く振られている。
「喜ぶがいい、トアハの町の方角が分かったぞ。ここから東だそうだ」
「あの……」
「ん? 」
「誰と話していたんですか……? 」
少女の言葉に、今度は狼が唖然とした。