上手に生きられないから下手に死ぬ
天井も壁も床も白い部屋は、いつだって鼻を突くような薬品の匂いがしていた。
それらは、鉄臭い血液や焦げ臭い硝煙の匂いを消し去るものの、あまり気分の良い匂いではない。
しかし、今日はそれ以外にも、眉を寄せてしまうような中毒的な煙の匂いがする。
窓に寄り掛かる汚れ一つない白い背中は、気怠げな曲線を描き、白濁色の煙を燻らす。
扉の前に立ち、早十分。
背中の持ち主は、ようやっと、煙と共に言葉を吐く。
「……用無ェなら帰れや」
低い声だ。
久方振りに口を開いたような、擦れた声に、私は背中に回した両手を組み合わせる。
見えもしないのに、適当に貼り付けたような笑顔を作るのは、最早癖だ。
「うん。先生が吸ってるの珍しいね」
「会話しろよ、この屑」
次には舌打ちが聞こえてきそうな悪態に、つい肩を揺らしてしまう。
口を開けば、乱暴で乱雑な言葉遣いだ。
良くも悪くも素直で、裏表がない人だと思う。
「先生は私が来たら直ぐに気付きますね」
カツコツ、と爪先で白い床を叩く。
厚底で鉄板の入った靴はそれなりに重いが、それなりの安心感があった。
しかし、そんな靴を履こうが履かまいが、他の人は私に気付かない。
後ろを振り向いて、やっと私に気付いて、一二秒程の沈黙の後に悲鳴を上げる。
その点、私は彼――先生が悲鳴を上げるところを見たことも、聞いたこともない。
どんなに物音を立てずに現れても、だ。
怒声や罵声は良く聞くけれど。
「お前は分かり易いんだよ」
「わぁ、本当ですか」
そんなことを言うのは、先生くらいだけど。
入って来て直ぐに鍵を閉めた扉に寄り掛かり「私、十分位前からいたけど、気付いてたよね」と、問い掛ける。
先生が振り向くことはなく、煙草の火がジジジ、と小さな音を立てた。
「何で声掛けなかったの?何かあったの?」
まるで知りたがりの子供だ。
先生が煙草を咥えて、煙を吐き出す。
空高く登るよりも先に、ふわりとその姿を消すそれは、風に煽られるだけでも簡単に掻き消されてしまう。
シャボン玉よりも、儚く、弱い。
もう一度、吸い込んで吐き出す先生は、こちらを振り向かずに、質問に質問を返す。
「……俺のしている事は、正しいと思うか?」と。
感情の乗っていない、声だった。
まるで業務連絡のようなそれに、私は視線を左右に動かす。
基本的に白で統一された部屋は、清潔感ばかりを感じさせるが、それは気持ちの悪いものだ。
「……それが、どういう時の何をしている時の事を指しているのかは分からないけど。でも、先生は自分が間違ってると思う事を、知らん振りするのが嫌いでしょ」
医務室が嫌いでも、医務室に来る回数は多い。
上手く噛み合わないそれに、最初こそ歯噛みはしたが、もう気にしないことにした。
気にすることで、疲れが増えるからだ。
それでも、清潔感を全面に押し出す白も、薬品の匂いも好きにはなれないけれど。
嫌でも来ることになるために、医者――正式には軍医だが――の先生のことは、それなりに知っている。
汚れることの多い白衣の替えを、大量に持っていることや、元々は煙草もお酒も愛用していたこと。
自分の正義を持っていること。
「先生が正しいと思ってるなら、正しいんじゃないの」
違う?と問い掛けるように首を捻る。
先生は真っ黒な髪を、風で揺らし、とつとつ、と煙草を叩いて灰を落としていた。
窓の外に落とすのは、どうなんだろうか。
「……俺は、怪我した奴の手当して、体調悪い奴の面倒見て……。でもそれは、軍の為って訳じゃなくて、ましてや感謝されたいから、って訳でもなくて」
窓下に向けられていた視線が上がって、首の位置、頭の位置が動くのを見た。
私は後ろ手で組んだ指を擦り合わせる。
「……最初はお前の事もあったけど――けど、今は、生きてる奴の時間を伸ばしたい」
組んでいた指を解いて、ぷらり、と両手を両太ももの外側で揺らす。
ほぼ無意識に目が細くなる。
先生がただの医者ではなく、軍医であるように、軍医のお世話になることの多い私もただの人、と呼ぶには頭一つ二つ分抜きん出て可笑しい。
ただの人が、自動小銃やナイフの扱いに長けているはずがないのだ。
サイコパスとは言わないが、普通に部類しては普通の人が可哀想だと思う。
「こんな時代じゃ呆気なく終わるそれを、何も出来ずに最期を見る事も何回もあった。でも、可能な限り、生きる時間を伸ばしてやりたい」
私は宙ぶらりんだった腕を持ち上げて、首元を撫でた。
鎖骨の形を確かめるように指を動かして、先生の声を聞いていた。
先生はどうしたって軍医であって、ただの医者にはなれないのだ。
同時に私も、ただの人ではなく、軍人だった。
いや、そもそも、この場――軍基地内にいる人間は、どうしたって軍人なのだ。
首の中央で、かり、と音を立てて爪を立てる。
まるで今更思い出したように振り向いた先生は、細いフレーム眼鏡の奥から、猫のような釣り目で私を見た。
首に引っ掛けられたネームプレートは、私達に与えられたドッグタグの代わりなのだろうか。
「正しいか間違ってるかで言うなら、俺は生きる事を『正しい』と思う」
真っ直ぐに、私を見る。
あまりにも真っ直ぐ過ぎて、私の方が視線を逸らしたくなるくらいには、真っ直ぐだった。
つい、息を詰めてしまう。
「でも……でも――」
先生の赤みを帯びた黒目が床に向けられた。
汚れ一つない白衣同様に、汚れ一つない床は、ツヤツヤテカテカと蛍光灯の光を受けて光る。
私はまた、首に爪を立てた。
「……『悪魔みたいな人だな』って」
サラリと落ちた前髪がその表情を覆い隠す。
目が悪いから眼鏡をしているのに、そんな長めの前髪で良いのだろうか。
どこか、別のことを考えてしまい、爪の動きを止めることが出来ない。
先生の言葉は止まらずに「死ぬ程の思いをして」恐らく一文字一句違えることなく「酷い怪我を負って」ゆっくりと「治療して」部屋の空気を震わせ「また戦場へ向かわせる」私の鼓膜を揺らす。
思うことが無い訳では無いが、ふむ、と首を引っ掻いていた指先で顎を撫でる。
「『俺達は戦場の数だけ死んだ』」
慣れ親しんだ自分の肌には違和感なく、顎のラインをなぞりながら、ああ、と思った。
特別怪我をしている訳でもないのに、全身の骨と言う骨が軋む感覚に、全身の筋肉と言う筋肉が引き攣る感覚を覚える。
「『アンタは何回俺達を殺すんだ』って」
手を下ろして再度揺らす。
小首を傾げるように、緩く傾けた首からは、ぽきり、と骨の音がした。
先生の言葉は未だ続き「俺は必死こいて助けた奴に」私はぼんやりと「俺の『正しさ』を否定された」思うことがある。
頭の片隅で、輪郭がはっきりしないような、霞み掛かった思考だ。
「俺は助けた分だけ、殺して来たんだ。そうなってくると、俺が人を助ける理由って何なんだろうな」
床下に視線を固定したまま、先生が言った。
窓の外に投げ出された手には、相変わらず煙を燻らせる煙草がある。
ジジジ、と音を立て灰を増やす。
私はと言えば、それを見ながら霞み掛かった思考を引っ張り出して、そのまま口にした。
「……先生は、悪魔って言うより、日本人だし鬼の方が合ってると思うんだけど」
「今はそういう話をしてんじゃねェんだけど」
態とらしく口元に手を当てて、首を大袈裟に捻って見れば、想像出来た反応が返って来る。
青筋を浮かべた先生は、自主規制すべき顔付き。
軍医だろうと、医者として見せるべき顔ではないだろう。
何度もそういった顔を見せられてきた私は、特に動じることもなく、流れるような動作で着ていたTシャツを捲り上げる。
軍から支給される、薄っぺらな黒いTシャツ。
その下には、簡素な下着と、女にしては筋肉質で傷の多い体だ。
ギクリと体を揺らした先生は、珍しく分かり易い反応をしてくれる。
突然服を捲り上げたことでも、下着を見てしまったことでもなく、ただただ、傷を見せられたことによって生まれた反応だった。
「私、お腹撃たれて肋骨も何本も折ったけど、凄く痛くて死ぬと思ったけど、今はもう痛くない。先生のお陰で、私、生きてるよ」
初めて医務室のお世話になったのは、ある意味先生のせいだった。
血を流したまま、廊下を歩いていたら引き摺り込まれ、更には初対面にも関わらず怒鳴り散らされたものだ。
今でも鮮明に思い出せ、昨日の事のように思う。
その後、医務室及びに先生には酷くお世話になった。
と言うより、現在進行形でお世話になっている。
死ぬのは嫌だったけれど、痛いのも嫌で、生きたいと思ったけれど、思い続ける事の出来ない日々だ。
それは、今でも変わらなかった。
それでも、全部の傷が治って、五体満足で私は先生の目の前に立っている。
何度だって戦場に出るけれど、その度に生きて先生のところに運ばれて、先生のお陰で今日も息をしていた。
雨の日には時折痛むお腹の傷は、小さなものが二つ――所謂、銃創だ。
「――っ」奥歯を噛み締めるようにして、小さく息を吸った先生は、私から目を逸らす。
ダクダクと流れる血液を思い出したのか、はたまた、冷たくなる手足を思い出したのか、瞳の赤が強くなる。
「……だから、そういう話じゃなくて」
「いーじゃん」
Tシャツを下ろす。
先生がこちらを見なくても、私は言葉を紡ぎながら、扉を背にして座り込む。
「別に堂々としてればいーじゃん。先生が負い目を感じる必要って、あるの?」
扉に後頭部を打ち付け「治療するのが先生の役目でしょ」と告げる。
私が戦場に立つのと同じだ。
何故、皆はそれが理解出来ないのか。
理解出来る出来ないではなく、それすら処理出来ないほどに追い詰められているのか。
私には、どちらでも良くて関係の無い事だが。
先生が目を見開くのを見ながら、続ける。
「生きる事は『正しい』よ」私は死にたかったけれど「誰かが否定しても、私が肯定してあげる」それでも、必死に生かされている。
先生がこちらを見た。
その目を見ても、私の口は動くことを止めない。
「楽しかったり面白かったりする事も、美味しいものを食べれる事も、下らない話だって……。死ぬ程辛い事も、本当に死んだら出来ない」
膝を折り曲げて、三角座りのような格好のまま、膝の上で両手を組んだ。
指と指を擦り合わせる。
「本当に死んだら何も無い。でも、生きてれば何とかなるし、何かあるよ」
先生と目を合わせて数秒。
最初に目を逸らしたのは先生だった。
目を閉じて、斜め下を向いて、煙草を持ったその手を後頭部に当てる。
くしゃり、と掴まれた髪がみっともなく崩れた。
長い溜息と共に「お前と話してると馬鹿になる」と言われたけれど、割といつもの事なので、軽く肩を竦めて聞き流す。
私は私の言った事を間違いだとは思っていない。
それこそ『正しい』と思っている。
明日死んでも仕方の無いこと、そう思って生きて来た。
死ぬのは怖い事で、痛いのも怖い事、でも、痛いのを続ける事は多分、死ぬよりも怖い事だと思っていた。
それを、毎度毎度、痛みを伴うような治療と共に、死ぬな生きろを繰り返す先生。
そりゃあ、絆されるし、洗脳もされる。
戦場で怪我をした際に思い浮かべるのは、先生の顔だった。
ヤバい死ぬかも、と言う時には、取り敢えず戻れば治して貰えるかな、と思うようになった。
この変化は、生きていたから何とかなったもので、何かと言えるものだろう。
「あーあ、阿呆らしっ」
ジュ、と、鈍い銀色の灰皿に煙草を押し付ける先生は、眼鏡の奥で瞳を細めた。
蛍光灯と自然光の両方に当てられた眼鏡が光り、その表情は分かりにくい。
「――お前は『間違って』くれるなよ」
「ん?何か言った?」
足の裏で床を叩いていたので、聞き逃した言葉に目を瞬く。
しかし先生は、その分かりにくい表情のままに「何でもねェよ」と鼻で笑ってみせる。
はて、と首を捻った私は、細くなって消えた白濁色の煙に鼻を動かし、腹を鳴らす。
お腹、減ったなぁ。
「おら、飯食いに行くぞ」
無防備なスリッパを履いた先生が、パタパタと言う足音と共に私に近付き、問答無用で私の腕を引っ張った。
力加減の無いような、無理矢理感。
立ち上がらされた私は、ほぼ反射で扉に体を向けて、ガチャリと回らないドアノブを回そうとして、扉に額を打ち付けた。
流れるような動作だったので、当然流れるような動作で額を打ち、鈍い音が響く。
マジか、痛い。
「っ……」額を片手で押さえ、ドアノブを握った手では、鍵を開ける。
「お前、馬鹿じゃねェの」と背中に投げられる言葉は、棘よりも呆れを多く含んでいた。
「つーか、何で鍵閉めてんだ」
「いや。だって話すのに邪魔入ったら、ムカつくから……」
「怪我人だったらどうすんだよ」
握った拳でゴリゴリ後頭部を削られる。
開いた扉を二人で抜けて、廊下に出た。
どうするもこうするも、本当にヤバかったら扉を吹っ飛ばしてでもやって来ると思う。
うちの軍内部は、割と過激派が多い。
だからこそ――と先生の白衣を掴む。
私の前を歩こうとした先生が、白衣の長い裾の一部を掴んだ私に気付き、くん、と引き止められ、私を見下ろした。
赤みを帯びたその黒目は、血液の見過ぎで、その色を映しているのだろうか。
「先生が『間違えたら』きっと、皆死んじゃうんだろうね」
私の言葉に、先生が、ふはっ、と笑い声を漏らしたから、私はそれで満足だった。