第1羽 速水チーム① -3/6-
今更ですが、このシリーズは(特にここは)JACK+本編のアンダー編のネタバレ全開です。
本編未読の方は先にそちらをご覧下さい。
JACK+本編
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そこは少し変わったスタジオだった。
前方と左右は硝子張り。だがスモークになっていて何も見えない。
床はフローリングで、狭くも無く、そこまで広くも無い部屋にグランドピアノがあって、片隅にはドラム、ギーターケース、機材やらマイクやらが並んでいる。マイクはスタンドタイプで、レコーディングでよく見る丸いノイズ除けがついている。
「まずは発声練習から。マイクの側に立って下さい」
そのトレーナーは、どこかで見た事がある――明かな歌手だった。
「……シンディ・フォーレス?」
レッスンスタジオに入った速水朔は思わずそう言った。彼女はかなり有名な歌手だ。
新曲を出す度に日本でもチャート10位に入るような。
シンディは確か二十二?くらいだったか。
ストレートの淡い金髪が腰くらいまで伸びて。色白で、目が大きくてかわいらしい愛嬌のある風貌のはずだが、目元を赤いマスクで隠しているのでよく見えない。
……が、ほぼ見えていると言ってもいい。
彼女の背はそこそこだが、胸は大きめでウエストは細く、つまりスタイルは良い。
自分でギターを弾いたりもする。歌は主に恋愛物。声は最高。
彼女の今日の服装は思いっきり私服。ジーパンに白のTシャツ。
……ちなみにそのTシャツには『歌で世界に平和を』とレインボーカラーで書かれている。
そして黄緑のヒールの低めのサンダル。
手には黒いファイルを持っている。
シンディの他にもう一人いるが、そっちの男性は知らない。だが雰囲気が――明らかにバンドとかやってそうだ。レゲエ系というか、髪は短いトラッドで肌が褐色。水色のヘアバンド。派手な模様のリストバンド。南国風のレインボーなハーフパンツを履いて、シンディとおそろいの半袖白Tシャツを着ている。
「ハヤミ、知り合い?」
ひょこ、とノアが速水の後ろから顔を出した。
「いや。外で有名な歌手に似てる。……本人でいいのか?」
速水はシンディに一応聞いた。
「いえ別人です。さあ時間がもったい無いわ。レッスンです。二人とも、マイクの前に立って」
…意外とこのレッスンはざっくばらんな感じなのだろうか?
シンディの口元が微笑んでいる。――だが、油断は禁物だ。
ノアがピアノの方、右側、速水は左側のマイクへと進む。
シンディが二人の前に立ち。グランドピアノにレゲエ風の男性が座った。
シンディが黒いファイルの資料らしき物をめくる。
「二人とも、ボーカルトレーニングをしたことは無いのね。良いわ」
資料を片手に持ったまま、シンディは速水とノアを見た。
「現状を知る為に、とりあえず何か順番に歌って貰おうかしら。二人が知ってる曲で……そうね、レットイットビーとかどう?」
「え?何ソレ?」
ノアが首を傾げた。
速水は驚いてノアを見た。まさかノアは、ビートルズを知らないのか?
ノアは困った顔をしていた。
「あら、知らないの……?じゃあ何か貴方が歌える歌は?」
シンディがノアに尋ねた。
「ええと……賛美歌なら、あとスクールにあったクラシック。俺教会にいたから。流行の歌とかラップは……ちょっと自信ない。あ、アメージンググレイスとかアヴェマリアなら歌えるけど」
ノアは答えた。
「じゃあソレで良いわ。ニックどちらか出来る?」「マリアの方なら」
隣の男はニックと言うらしい。
ピアノ伴奏が始まる。
日本人も良く知っているあのメロディだ。
速水も昔聞いた事があったので、覚えていた。
その中で緊張気味のノアは息を吸った。
「――、あっ。アー……」
ノアがピアノを追うように、慌ててリズムを取る。
初め短い入りに戸惑い、音を外したが、ノアは下手では無かった。
声が――、音と混ざって不思議な響きだ、と速水は思った。宗教的な音楽だからか?
――速水に聞こえる伴奏はぐちゃぐちゃに歪んでいるのだが、この曲は珍しく不快では無い。
ノアは緊張して歌いにくい様子だが、声は高い部分も出ているし、伸びも良い、音程も多分すごく合っている。
速水は、ノアはすごく声が綺麗なんだ、とふと思った。
す……、っと糸が途切れるように終わった。
最後聞こえた、ぽう、と言う鍵盤の音がなんとも言えなかった。これは悪い方向にだ。
それでも速水は、ノアの歌声とそれに合わさる伴奏『良い』と思った。
「……と、……先生、どう?」「おお。意外といいんじゃねえか?」
ノアは不安げに聞き、同時にピアノのニックが言った。シンディを見る。
シンディは楽しげに微笑んでいた。
「ええ。悪く無いわ。高いキーも出てるし、声質も綺麗ね。貴方はレッスンすれば大丈夫。きっとすごく上手くなるわ!頑張りましょう」
ノアは褒められてホッとしたようだ。
「うん!よろしく」
素直に返事をして、笑顔を見せる。
「サク・ハヤミも一緒の曲で出来そう?知ってるかしら?」
シンディに言われて速水は少し困った。
これを歌う……?
「大体歌えると思うけど……サビくらいしか知らないし、ちょっとノアの高さは無理かもしれない。他の曲は?」
速水は正直に言った。高すぎる。
ノアのそれは、思えばとんでないボーイソプラノだった。それにもともと女性が歌った曲だ。シンディも苦笑する。
「そうよね、じゃあ、初めに言った曲、貴方、英語で歌える?」
何気なく聞かれた。
「大丈夫」
速水は頷いた。
そして、下手くそに聞こえるピアノ伴奏と共に、速水は英語で歌った。
「あら?意外に上手いわね。英語なのに」
速水の歌が終わって、シンディはそう言った。
「知ってる曲だし」
と速水は言った。
シンディは資料を見て首を傾げていた。
「――ええとけど貴方、ちょっと耳が良くないの?」
ノアがピクリと反応した。
「え、あ、イエス」
「スクールの資料だと、変わった音感の持ち主ってあるけど……?どんな感じなのかしら?説明出来る?」
速水は自分の奇妙な音感について、アンダーに来てから、今まで誰にも話したことは無かった。もちろんノアにも言っていない。
ノアは何か問題があるらしい、と知っている程度だ。それもまだきちんと話した事は無い。
「ええと、かなり変わったスケールに当てはめて曲を聴いてる……?って」
速水は戸惑いながら言った。
――隣でノアが速水を、『興味津々、わくわく、早く聞きたい!え、なにそれ?』と言った様子で見ていて、若干居心地が悪い。
シンディが首を傾げた。
「スケールって、どのスケール?メロディマイナーとか、ジャズとかの話しよね?」
「それが、よく分からない。ただマイナスとプラスの曲があってマイナスは苦しくて、プラスはおかしい。あと、音が幾つか死んでる」
速水が言った。
「……?何ソレ」
言ったのはノアだ。シンディも眉をひそめた。
「分からないわ?どういうこと?」
「えっと。ピアノ借りても?」
速水はニックに聞いた。
「いいぜ」「サンキュー」
速水は立ったまま鍵盤を一つ弾いた。
いわゆる、鍵盤中央のド。
英語ではCDEFGABCと言う。つまりドレミファソラシド、だ。
速水はド(C)を押さえた。
もちろん、ドー、と鳴った。
ノアにはそう聞こえた。
速水にもそう聞こえるはずだが――?
「これ、Cの音だけど。……もう違う。ふぎぃ、って感じの低い音がする。昔はこんなこと無かったけど……昔聞いた音と明らかに変わってる。このドは大分前から死んでる。えっと俺の国ではイタリア語で『ドレミファソラシド』って音階を使うんだけど……知ってる?」
「ああ、もちろん知ってるぜ。説明続けてくれ」
ニックが言った。シンディも頷く。
さすが国際色豊かなGANのレッスントレーナーだけあって、もちろん知っているらしい。
ハァ、と速水は溜息を付いた。
鍵盤を弾く。
中央から、ドレミファソラシド。さらに高いキーへ。右に進める。ドレミファソラシドと。
ふぎレミフぃソラシぐぃう゛、レミぁおうぁラびぃぴー。
「って感じ」
ぼそりと言って、見れば三人共が目を丸くしていて、速水はとても恥ずかしくなった。
速水は口で歌ったが、全く伝わっていないようだ。
顔が熱い。
「上手く言葉にできてないかもしれないけど」
速水は言い訳がましくそう言った。
ノアは???と首を傾げて瞬きして、そして。
「何ソレ」
と若干愕然として言う。ノアからしたら呪文だった。速水は日本語で表現したので、余計に分かりにくかったかも知れない。
「もう一回やって!」
ノアが言った、シンディ、それとニックも身を乗り出す。
速水はもう観念して、全て説明した。
子供時代のある時から、徐々に音が変調していった。
難聴に近い症状らしいが、会話は支障なし。環境音も普通に聞こえる。
ただ、音楽だけが。どうしてもおかしい。――と。
「十一歳ごろに凄く酷くなって……このまま音が聞こえなくなるのかと思ったけど。ジャックと出会った位でドレミの崩壊は、何とか止まった」
速水は眉根を寄せて言った。右手で少し髪をかき上げ、耳たぶに触れる。
それを聞いたノアは、慌てて速水に詰め寄った。
「ちょ、ちょっと待って!ハヤミ、それってドが『ド』に聞こえてないってこと?きみ、編曲の時、Aはエーって通じたよね!?それは!?」
速水はノアを両手で押しとどめて、目を泳がせた。
「それは、実は。……こっそり楽譜見て予習してて」
アンダーでは大抵スコア、つまり楽譜も簡単に手に入る。
速水はカーテンの奥で、内心唸りながら、ひたすら曲を予習していたのだ。
ノア達と話を合わせられるように――というのもあるが、音楽を一人で聴くのが癖になっていた。
……誰かと一緒に聴いて、曲の感想を求められても答えられないからだ。
それにどうやら、たまに危ない顔をしているらしい。
「っ、じゃあダンスする時は?ちゃんと音が聞こえるの?高さは合ってるの?曲はどんな感じ?」
シンディが尋ねて来た。
「もう酷いけど、リズムは合ってるから、勘で踊ってる」
速水は溜息をついた。
「――勘って、そんな。それってどんな感じなの?」
横からノアに言われ、速水はまた溜息をついた。
ダンサーなのに、耳が変とか、知られたくない。
……自分の裸をさらすような、かなり恥ずかしい話だ。
「まず、曲には。プラスの曲とマイナスの曲がある」
そして大前提、とでも言いたげに指を立てて速水は言った。
「「「はぁ?」」」
三人がポカンとした。
速水は詳しく説明をした。
彼は珍しくとても饒舌に語った。まるで世間話のように。
「プラスの曲は騒々しくて、音が賑やかい。音が体全体に当たる感じの曲に多いな。長調や短調??とかBPMは関係無い。単純に楽しげな曲?マイナスの曲は頭に響く感じで、ガンガン、ってする曲、ロックとか、後はブレイクビーツにも多い。単純に趣味悪い曲とかだな。知り合いのDJがやるのはコレばっかで、しかも全部がずっと凄い最悪で。全く、イかれてるよな。ええと、人が直接弾いた場合とCDの場合だとちょっと違う。生演奏だと多分感情とかが入るからだと思うけど、上手い人ならハイになるし、下手な人だと吐きそうになる。そんな感じ?」
……実は誰かに聞いて貰いたかったのかもな。
話しながら、速水はそう思った。
ノアは良いとして、シンディとニックか――、頼んだら内緒にして貰えるだろうか?
無理かもしれないが、速水の感覚はさすがに変わりすぎていて、逆に話題にならないだろう。
速水は首を傾げる。先程シンディがスクールからの情報で、と言っていた。
つまり元からネットワークは知っていた?
シンディ達には内容は伝わっていなかった……?
自分が少し変わった、奇妙な音感の持ち主、というのはライブハウスの仲間内では有名な話だった。ネットワークに伝わったのは、そのあたりからか…?
速水は短く思考し。そして続ける。
「CDは俺のコンディションが悪く無ければ、毎回聞いても同じ。生演奏の時は多分演奏家のコンディションでも多少違う。弾く人が、…俺と相性が合う、合わないもあるけど。ニックのはどちらかと言えばプラス。どっちの場合もリズム、テンポは自分で取れるから、何とか踊れる。即興の時は、聞こえた音に合わせて適当に踊ってる――とそれは普通皆そうだと思うけど。一昨日の演奏は酷かったな…………、」
生で演奏された曲が合う合わないは、体の相性みたいな感じがある。
速水はさすがにそこまでは言えなかった。
言って軽蔑されるのはごめんだ。
別に興奮するわけでは無い。ただ、陰鬱になったり、陶酔しそうになるときはある。
向精神薬を入れられたみたいな、強制的な変化。あるいはそれが切れた時のような絶望、悲しみ。それと真逆の不思議な喜び。動悸、痺れ。変調。それが音楽を聴く度に起きる。
なぜそうなのかは分からない。
ライブハウス。そこに支配人を慕い集っていたダンサー、DJ達。
幾人かは事故の後、音信不通になっていた。ジャックのマネージャーで妹のリサ、そしてロブを筆頭に、思えば軒並み。――ネットワークはタチが悪い。
速水は続けた。今度は少し微笑んで。
「プラスの曲で踊っているとハイになって、無茶苦茶楽しい。時間を忘れて踊り続けそうになる。けど滅多に無いハズレ、マイナスだと頭が痛くて死にたくなる。この下手クソっお前が死ね!て罵倒したくなる。一番酷かった、ジャックと出会った頃よりはまともになったけど――あ、マイナスでも聞ける物があって、それは上手い曲だと思う」
ふう、と速水は話し終えた。
「このくらいかな。……ええとちゃんと伝わったかな。質問とか……」
速水はそう言った。こうして詳しく話すのは初めてで、どうも説明しにくい。途中から少し熱が入ってしまった。
「良く分かんないけど、それって踊りにくくない?」
ノアが言った。
「いや。ドマイナスじゃなければ余程。……プラスなら平気?じゃないけど、何とか。もう原曲がどんな風かちょっと分からないのが嫌だけど」
速水は溜息を付く。
「ううん……絶対音感みたいな。単純に、感覚的な物なのかしら?」
シンディがメモを取りながら困っている。ニックもそれをのぞき込んでいる。
「シンディ、聞いた感じだと、それとはなんか違わないか?」
ニックがメモを見て言った。どうやら報告しないといけないらしい。
速水は、まずいな、と思ってのぞき込んだが、そこには、
・感覚的な音感の持ち主?むしろ難聴に近い?後天的な物。
・絶対音感では無い。
・独特な外国語による音階の表現。
・マイナスとプラス?
と書かれていた。別にこれくらいならいいか…と速水は思った。
しばらく、シンディがマイナスとプラス、の部分にペンを当てて考えた。ニックと少し話す。
「どうしよう分からないわ。もうっ」
シンディは少しぶつくさ言いたい様子だ。
ニックも腕を組んでいる。
「このデータって、何に使うんだ?」
速水はファイルをのぞき込んだまま尋ねた。
「あ……」
うっかり見られたシンディが少し焦った。
……見てはいけない物だろうか?
「ごめん、報告されると恥ずかしい。そのくらいなら良いけど、おかしな噂が立つと困るんだ」
速水は正直に言った。
ニックとシンディが目配せをした。
「報告って、まあ別に良いよな?まだ初期評価とレッスン内容だけで」
「え?ええ……他のダンサーはこのくらいよ」
シンディが言った。一枚めくり、ノアの方を見せる。ノアのデータ欄には『Bプラス。ソプラノも可能?期待大』とだけ書かれていた。速水のデータ欄はまだ空白。
シンディ達はネットワークに雇われた臨時講師なのかもしれない。
「歌は?特に悪くはないけど……、音程の覚え方は?そこが重要よね」
シンディが若干楽しそうに?に尋ねて来た。
「あ。実は、楽譜があればそれに合わせられる」
速水は笑った。
「子供の頃はまともだったから、本当のドレミがどんな音かは覚えてる」
「あら、そうなの?もう。ならそれを先に言ってよ!良いわ。とりあえず、何とかしてあげる。二人とも、他のとんでもない音痴ダンサーに比べたら、見込みはあるわ。まずは基礎練習からね」
シンディが笑った。
「まあ歌えるようにしたら良いんじゃ無いか?」
ニックはそういう風に言った。
シンディも頷いた。
「そうね。声も出てるから、早めにスコアをもらえる様に言っておくわ」
「サンキュー」
速水は礼を言った。
「あら。そろそろ時間ね。次があるから、二人とも、シーユー」
シンディが手を振った。