第1羽 速水チーム① -1/6-
「ボーカルトレーニング?」
端末を見下ろし、速水は聞き返した。
「そう、ハヤミ、歌、超好きだろ?」
ノアが笑った。
ノアは金髪碧眼。
巻き毛を肩が過ぎるくらいまで伸ばし、首の後ろで一括りに結んでいる。
ノアは速水の一つ下、今は十七歳だが、やや子供っぽく見える。
…レオンとベスは召集が掛かって出て行ったらしい。
ノアは速水が起きるのを待っていたようだ。テーブルの上に何冊か雑誌と、その上に日本語の書き取りノートがある。
今日のノアは白のTシャツ。これは『NOAH』…つまりノアというブランドのシャツで、胸にノアと書かれ、その下にプラスみたいな形の赤い十字架がある。
あとは迷彩柄のカーゴパンツ。同色系のごつめの、黒ラインの沢山入った限定スニーカー。カラフルな紐のブレスレットを適当に巻いている。
当然だが、全て世話役のエリックが持って来た物だ。
ノアはカトリック教徒なので胸にクルス。
ここでも信仰の自由くらいはある。
「ここ」はアンダー。文字通りの地下。
地下組織の…、という意味の地下だ。
…この部屋が本当に地下なのかは、窓が無いので分からない。
だがショーへ行く時は目隠しのまま階段を上がる。
速水朔、彼は今十八歳。
速水は去年の九月に誘拐され、この組織に連れて来られた。
今日は五月二十四日。
――速水はここしばらく、とても体調が悪かった。
その為、ウルフレッドに代打を頼み一月半ほど休養していた。
座っているのはいつもの位置。
右に速水、左にノア。クイーン用の個室を背に横並び。
現在時刻は午後四時十四分。一応、端末の片隅で時刻は見られるし、窓の無い壁際には背の低い棚があって、その上にも小さなデジタル時計がある…。
その他棚の上にあるのは、速水のサイフォン――これは新しい物。追加された小型のエスプレッソマシン。ラジカセ、ヘッドフォン。棚の中には定期的に届けられるダンス関連雑誌。ファッション雑誌。
ファッション雑誌は男性雑誌と女性雑誌。
雑誌…こんな所にも金が動いているのかと、速水はたまに呆れる。
この組織の正式名称は『グローバルネットワーク』
馬鹿みたいな名前だがそうなのだから仕方無い。GANと略されることもある。
彼等の目的は世界征服――ではなくて、『ダンスで世界平和!』というとても馬鹿馬鹿しい代物だ。
だがネットワークは世界平和に大いに本気だ。
最低だ、と速水は常々思っていた。
世界平和自体は実現すればまあ、良い事だが…ネットワークの方向性は大いに間違っている。
速水朔、彼は誘拐された事をまだ恨んでいる。
速水は自分の誘拐を指示したという、この組織のトップ『ジョーカー』…ソイツを見つけたら殺す気でいる。
なぜならソイツが速水のブレイクダンスの師匠である、『先代ジャック』ことジョン・ホーキングを殺したからだ。
…たぶん。
まだ確証は無いが、外に出たら前後関係を洗い出し、必ず…!
凱旋ステージ天井の崩落血まみれのジョン。
あれが事故で無いなら。
俺は死刑でも構わない。
「…どうしたの?具合悪い?」
「いや?」
ノアに言われて苦笑した。どうやら目つきがきつかったらしい。
…速水は、目つきのきつい男だった。
顔立ちはひどく整っているが、普通にしていても怒っているの?と聞かれる。
今日も速水は全身黒色だった。黒の半袖。長ズボン。黒い靴。
愛用の黒くてつばの裏が赤いキャップは、ベッドの横の棚、一番上に置いてある。
最近はずっとパジャマとか入院着、そして裸足だったが、昨日、そろそろ良いかも、と言う言葉を聞いたエリックが嬉しげに持って来た。
世話役の彼は、速水の世話に心血を注いでいる。
ついでにネックレス、バングル。アクセサリーも。別の帽子も。
速水は「ピアスはどうですか?」と、新品のピアッサー片手に聞かれもちろん断った。
服はいつも二、三日分、まとめてエリックが持って来て、洗濯物は毎日、レッスン中に回収される。
つまり、この部屋にはいつも必要分しか置かれない。ベッド脇の棚で事足りる。
「で、俺と、合同レッスンだって!珍しいよな」
ノアの声は弾んでいる。
「……」
速水は黙り込んだ。少し困った様な顔をする。
「あ、大丈夫。俺がフォローするから!ハヤミ歌は上手いし何とかなるって。歌は一週間の集中レッスンで、その間リハビリも兼ねて少しずつ踊るってさ。その後は週に二回くらい?わからないけど。また、今度そういうステージがあるのかな?楽しみだね、あ、ベス達がソレ聞いてるのかな?」
ノアはとても楽しげだ。笑っている。
「??」
速水は首を傾げた。
ノアと俺は、いつからこんなに打ち解けたのだろう…?
ノアは続ける。
「――でね、ベスもそろそろ出産だから、もう来週頭から速水のフレンドの医者が来るって。どんな人だろう?ハヤミはゆっくりで良いから、リハビリしなよ。運営にもしっかり言っといたから。絶っ対、無理はするなよ」
ノアは微妙に苦笑している。
「??分かった。早く調子戻さないとな」
速水は頷いた。…とても気を遣われているのは分かる。…まあ、いいか。
「だから焦らないで。普通でいいよ。――いや、ハヤミ的にはゆっくりで。レオンまだかな?あー暇!ベスはどうだろ。トランプ…」
―と、立ち上がろうとしたノアがドアを見た。
「あ、来たね」
言われた速水も足音に気が付いた。
ガチャと扉が開き、レオンとベスが入って来た。帰って来たと言うべきか。
ガスマスクが目隠しと手錠を外して出て行く。
「二人ともおかえり!」
「ああ」
帰って来たレオンが返事をする。隣にはベス。
レオンの表情は少し微妙だった。
「あらハヤミ、もういいの?」
ベスが大きな腹を抱えて言った。
「ああ、そろそろ普通」
言いつつ、速水は申し訳無くなった。
療養中のことは…時々、覚えていない。
だが妊婦であるベスの個室を占領し、追い出し、迷惑を掛けたのは間違い無い。
個室から解放された後も、皆に色々気を遣わせた…。
よく分からないが、ノアも運営と良く話をしたらしい?後で礼を言っておこう。
それにしても、妊婦のベスまで呼び出されるとは…一体何だろう?
「ベス、具合は?」
速水は聞いた。
「ええ、貴方は?」
苦笑で返されてしまっては仕方無い。
「もう大丈夫」
速水は笑った。
速水はベスの為に椅子を引いて、ベスがそこに座る。
「それ俺の…、まあ…」
ベスの恋人のノアが少し言いかけたが、ノアはやはり機嫌が良いらしい。
それぞれ席に着く。
「で、レオン?何?」
ノアが聞く。
「ああ。――少し先になるんだが」
レオンは、一枚の紙をテーブルに置いた。
その紙には。
『世界平和の為の、海外公演』
そう書かれていた。