第1羽 速水チーム①2 五月二十六日
翌日、五月二十六日。
熱中症から回復した速水は、朝からノアと共にボーカルトレーニングを受けていた。
今朝出てきた今週の予定を見たのだが……どうやら、これから遠征開始の六月三十日まで毎日、午前中は歌のレッスンのようだ。
これは本格的に歌うイベントが来るのかもしれない。
「はい、じゃあ、最後にもう一回。覚えたことを実践して」
今日のレッスンは発声練習。
基礎的な声の出し方、呼吸のやりかた。そういう事を一からじっくりと教わった。
トレーナーは前回に続き歌手のシンディ・フォーレスにとても良く似た女性と、ピアノが弾けるニック。
ニックは華麗な指使いで曲を奏でる。
速水には何が何だか分からないが、楽譜は貰えたのでなんとか歌った。
隣でノアが歌っているので、それにタイミングを合わせて、シンディもお手本として歌ったりした。
「はーい、いいわ。今日はこのくらいで」
「ふう。結構疲れた」
ノアが息を吐いた。なかなか疲れたようだ。
速水も結構疲れた。
「ねえティーチャー。これって、遠征で歌を歌うのかな?」
ノアが言った。
シンディは荷物をかき混ぜている。
「ええ。そうよ。歌う曲が分からないのが痛いけど……貴方達はそれまでには、まだなんとか形になると思う」
シンディが言った。
速水達はレオンやベスとは何の都合か分けられている。
速水は聞いてみることにした。
「シンディは、他のチームも担当してるのか?レオンやベスは別の講師だって言ってたけど」
「ああ。ええとね、初回で歌のレベルを見たしょう?私はレベルがB以上のダンサーを担当してて、詳細は言えないけど。他にも教える子が沢山いて大変。午後からもまたレッスンよ」
「なるほど。雇われた?」
速水は柔らかく尋ねた。
「そうね。報酬が良かったから、小遣い稼ぎよ。新しいバックと靴が欲しくて。良くあるのよ。そういうお誘いが」
速水は、シンディは案外口が軽いのか?と思った。
たぶんバイトが終わったら、ネットワークの事をペラペラ喋るのでは無いだろうか?
「もしかして、このバイトって歌業界じゃ有名なのか?」
速水は首を傾げた。
「ええ。毎年、色々イベントやってるから、講師不足なのよ。私以外にも外から来てる子もいるし。リックも結構外じゃ有名だし……」
シンディが言った。
「へえ。ネットワークはいつもリッチだな。ありがとう。リックはどんな曲をやってるんだ?」
速水は感心して、リックに話かけた。
リックは自分を親指で差した。
「俺は見ての通り、レゲエに生きる男さ」
「レゲエってどんな曲だ?」
「おま、レゲエの良さを知らねぇの?」
速水がリックと話しはじめたので、シンディはノアに話しかけた。
「ノア、他のメンバーの進みはどうかしら?聞いてる?」
シンディはノアに尋ねた。
「あんまり。ベスがちょっと、そろそろ大変な日だから、それが終わってからで間に合うかな」
「あら、えっと何かあるの?」
ノアの言葉にシンディは首を傾げた。
「出産――あれ、知らなかった?俺」
ノアは嬉しそうに言った。
「!――俺の子供が生まれるんだ」
速水が言った。
「――え、あっ!イエス、……ええと、ハヤミとベスの子供。楽しみだなぁ」
ノアが言った。
「まあ……、……それはおめでとう」
シンディが言った。
「ありがとう。外に出たらクイーンと結婚するんだ」
速水はいつもの調子で楽しげに言った。
「えっ……そうなの?あっ」
シンディが楽譜を取り落とし、拾った。
「クイーンは初産だし、予定日は来月初めだから心配だ」
速水は言った。
「じゃあ、今は安静にしないといけないわね。はい、これ次回の楽譜、あとレポートをよろしくね」
彼女はぎこちなく微笑み、楽譜を取り出し速水に渡した。
「またね、シーユー」
シンディが手を振った。
■ ■ ■
「ベス、ただいま!」
ノアは部屋に戻り、手錠を外された後、真っ先にそう言った。
けっこう物音がすると思ったら、エリックと――他のスタッフ達が準備をしていた。
「おお。ノア、サポートが来たぞ。やれやれだ。見ててヒヤヒヤした」
レオンが同じく目隠しを外された速水を見て言った。
近頃の速水――は寝込んでいたので一昨日から――ノア達はもっと前から。ベスの腹を見てはハラハラしていた。
もうとっくに臨月で、実際いつ生まれてもおかしくない。できれば前倒しでサポートが欲しい、とエリックに言っていたのだ。
「あっ、良かった!早い」
予定より少し早いだけだが。それでもずいぶん助かる。
ベスはまだ横になっていない。
というか機材が個室に次々運び込まれているので、テーブルで待機だ。
「でも良かったわ……。さっき説明を受けたけどちゃんと本職みたい。ナースも付けてくれるらしいの。切開じゃなくて、自然分娩が良いっていったら聞いて貰えたわ。痛みも和らげて貰えるらしいし、後は産むだけね」
ベスは明らかにほっとした様子だ。一番気をもんでいたのは彼女だろう。
「だね!サポートが間に合って良かった。ん……、これは?」
ノアはテーブルに座り、冊子を見る。
「これね、出産後、しばらく近くの病院で赤ちゃんを預かってもらうから、その説明を読んでるの」
「あ!それって本当だったんだ?」
ノアが言った。
ちょうどレオンが水を持って着席する。
「赤ん坊が飛行機に乗れるようになるまでミルクを届けてくれるらしい。まったくハヤミの友人には大感謝だな」
レオンが苦笑し、ベスが頷く。
「ええ。本当に。それで、その後はイギリスへ行くらしいの」
「え?イギリス?遠くない?」
ノアが驚く。
「でもエリックが付いて行ってくれるから。あ、ねえ――ハヤミ」
速水を見てベスが微笑む。
「ん?」
機材の搬入を見ていた速水は振り返る。
ベスが微笑み、こちらを見ている。
「ハヤミ!フレンドに、本当に心当たり無いの?俺達お礼したいんだけど!」
ベスの代わりにノアが来て、速水の手を握った。キラキラした笑顔で言った。
「――」
速水はちょっと困った顔をした。相変わらず、心当たりは全く無い。
「……聞いてみる。すみません、お話いいですか?」
速水は、医者と女性看護師に声をかけた。
医者は六十代くらい、白い髪に眼鏡をかけて、穏やかな雰囲気。
ふくよかな女性看護師は『この手で千人以上は取り上げました』という雰囲気を醸し出している。いかにもベテランと言った様子だ。
「はい、なんでしょう?」
医者が微笑む。
速水は微笑み頭を下げた。
「今回はどうもありがとうございます。サク・ハヤミです。クイーンと子供をよろしくお願いします。ところで、俺はイギリスの知り合いに心当たりが無いのですが、一体どなたが援助して下さったんでしょうか?」
設備を見てもまるで産科医院で、よくここまで、という感じだ。
「ああ、貴方がハヤミさんですね。はじめまして。詳しくはお話出来ませんが、どうぞご安心下さい」
医者は胸を叩いて言った。看護師は微笑んでいる。
「――はい、あの、ぜひお礼をしたいのですが」
速水はにこやかに言ってしばらく待ったが、他に何も言う気は無いようだ。
医者は、はははと笑っている。
沈黙の後、速水は頭を下げた。
「……。……でしたら、お礼を伝えておいて下さい。いずれ直接伺いますが。本当に感謝しています。どうかよろしくお願いします」
「いやいや、お礼なんてとんでもない。ですが皆様のお気持ちはお伝えします。お任せを。いやご心配無く。気にせずに。はっはっは」
ちょっと茶目っ気を含めて言われ、ぽんぽんと肩を叩かれた。
「あ、はい、助かります。――ごめん聞けなかった」
速水はすこし項垂れ、あえなく席についた。
「私も聞いたけど、そんな感じだったわ」「まあいいだろ」
ベスは苦笑した。レオンも同じ様子だ。
「うー。緊張して来た!」
ノアは言った。その表情は明るい。
「そうだ。午後から移動だし、いまのうちに予習しとこう」
言って速水は、自分のスペースに入った。
午後から移動だし、明日も朝はボーカルレッスン。出産になれば時間がかかるだろう。
おそらくその間は何かするどころでは無い。
速水が自分のスペースを見ると、エリックが花瓶に花を生けていた。
速水はそれをしばらく眺めた。エリックは振り返り、笑う。
「ああお帰りなさい、ハヤミ。貴方も診察です」
「あ。そうか」
速水はベッドに座った。エリックはベッドの横で椅子に座り、ドクターバッグを開ける。
エリックは、速水の下瞼の裏を見たり、聴診器をあてたり。金属のへらを舌に当て、喉の調子を見たりした。カルテに記入する。
「具合はどうでしょう?鳴き声は収まりましたか?頭痛やめまい、だるさなどは?」
「全く無い。リピートが済んで、良くなったみたいだ」
速水は笑った。
「それは良かった。ですがご無理はなさいませんように……。いつもの処方を頼んでおきます。私はもうすぐ、お嬢様と一緒に外へ出ますが……くれぐれも、よくお気を付けを。後任はまた挨拶に参ります」
エリックは速水をじっと見て、指でこっちに、という合図をした。
速水は耳を傾けた。エリックが囁く。
「わかった。サンキュー」
速水は頷いた。
その二日後。――五月二十九日の昼。
ノアとベスの娘、エリザベスが生まれ、エリックは出て行った。
■ ■ ■
約一週間後、六月七日。
「あー……『~パパでちゅよ~』ってもっとやりたかったなぁ……」
子供と離れたノアは落ち込んで、そればかりだ。
「でも写真沢山貰えて良かったわ」
個室の中からベスが言った。机の上には五・六、枚の写真がある。
ベスは経過観察中で今は看護師が交代で付いている。夕方からは医者の診察がある。
気が塞ぐとの理由で、個室の扉は開けっ放しだ。
ノアは個室に移動した。
「だよね!ああどれも可愛いなぁ……生まれたての子供ってあんな小さいんだ。凄いね。ベス、お疲れ様」
「ノアも、色々ありがとう」
というやり取りを、速水はもう三回は聞いた。
「まあ、あれだけ厳重なら大丈夫だろう」
言って、速水はテーブルの上で、シンディからの課題を見た。
「ん?」
ノアがそれにめざとく気が付く。
「――それってさ。何書いてあるの?」
速水はノアに紙面が見えないように動かした。
「いや。別に、ただのレポート」
「でもハヤミだけだよね?音感サポートなの?いやレポート?暇だし見せて」
「駄目だ断る」
速水は断固ノー、と言った。
「ええ?なんで?」
速水は紙を裏返した。
「ただの文章だし。見ても面白くない」
ノアがきょとんとした。
「――あーーーーー?あーー??あーっ!……なるほどね~!」
速水の様子を見て、ノアはにやついた。
「……」
「ああ~。なるほど、ハヤミ、君って、ああいう子がタイプなんだ!?ああ~~」
「……」
速水は大いに目をそらした。ノアのクスクス笑いを久しぶりに聞いた。
ノアは声をひそめた。
「クスクス。ベスには内緒にしてあげる。でもレオンには言っていい?これって超面白いニュースだよ!ついに春が来たの?」
ノアに言われて、速水はテーブルに伏せた。
「……どっちにも言わないでくれ。……まだわからないけど、真剣なんだ」
「えっ?そうなの?遊びかと思った。ごめんね。じゃあ言わない」
速水の言葉にノアは素直に頷いた。
速水は伏せたまま助かる、と手だけで返事をした。
「どこが気に入ったの?確かに美人だし、感じいい子だけど……あの子、ニックと付き合ってるんじゃ無いの?」
ノアが言ったので、速水は感心した。少し顔を上げる。
「ノアもそう思うか?」
「うん。だってなんかジャンル的には接点無さそうだけど、一緒にレッスンしてるし。いきなり組んだにしては息ぴったりだし?わかんないけど」
「幼なじみらしい。まあ、だといいけどな――」
速水は言って、レポートを持ち立ち上がった。
■ ■ ■
さらに一週間が過ぎ、六月十七日。夜。
「ノア、出たぞ」
風呂から上がった速水はノアに声を掛けた。ノアは自分のベッドに座り、ベスと話している。
ダンスも、ボーカルトレーニングも順調で、バトルは速水の体調が戻りまた勝てるようになった。ベスの経過も悪く無い。もう起き上がって普通に歩いている。
風呂上がり、速水は黒地にグレーのラインが入ったジャージを着ている。
インナーはピンクのイルカと描かれた黒のTシャツ。
ノアはやたらカラフルなズボンに青いシャツを着て、派手なブレスレットを何重にも巻いている。速水はちょっと付けすぎだと思った。
明日はボーカルトレーニングと、またエステ。
ちなみにエステはベスもノアもレオンも週二回、しっかりと予定に組み込まれている。おかげで皆肌がつやつやだ。
あれからサウナは交代で入るようにしている。
そのおかげか、鍵をかけられたり、プリンおよび水が怪しかったり、そういう事はないのだが、犯人の目星が全く付かないので、注意するに越したことはない。
速水としては、エステやヘアサロン云々より、もう少し踊りたいのだが……速水のカルテを見た新しい世話役が『絶対に無理はいけません!』と言った。世話役とは心配症なのだろうか?
……海外公演についての詳細は不明だが、やはりそこで歌う必要があるらしい。
近頃は歌いながら踊るレッスンが入って来た。日本でよく見たアイドルグループのような感じだ。
ダンスは良いのだが、上手く歌いながら踊るのは中々大変で、皆、それぞれ苦戦している。
「ん、じゃあ入るね」
風呂に入ると言った物の、ノアはベスと話していてまだ動く気配が無い。良くあることなので、速水は冷蔵庫からボトルを取り出し水を飲んだ。
「ベスの復帰ステージ楽しみだね。そろそろちょっと踊る?」
「そうね。調子は悪くないから、明日から試してみようかしら。もう、退屈で。レオン、どこか部屋空いてる?」
ベスがレオンに尋ねた。ちょうどレオンは自分のベッドで端末を見ていて、ああ、と言って調べ始めた。
「空いてるな。入れとくか。たく、またエステかよ……」
レオンが言ったので速水は苦笑した。
「ん?おい、イベントの詳細が出てきたぞ」
レオンが言った。
皆がレオンのスペースに移動する。
お知らせにはこう書かれていた。
【~チャリティライブ・歌とダンスは世界を変える~ワールドハッピー・サマーフェスティバル&先駆け・グローバル豚ファイト】
出発…六月三十日。朝六時。
場所…ララーサ島/GAN島
【豚野郎共へ】自室で待機しろ。夢のステージがお前等を待っている。
【各クイーン様へ】お部屋で待機願います。皆様に最高のおもてなしを約束します。
持ち物…特になし。そのバナナはオヤツに入らないぜ!だが忘れるな!
「……露骨に差があるな。なんだこの持ち物は」
レオンが呆れた。
速水も同じくバナナに呆れた。ノアはほっとした様子だ。
「でも、これならベスも行けそうじゃない?クイーン達は休暇とか、そんな感じ?」
「そうね。良かったわ。水着とか、着替えはいるのかしら?」
「最高のおもてなし、ってあるから、いらないんじゃないか?」
速水が言った。
「あっ!そうだハヤミ、この『島』って、外国?っていうか何この名前」
「多分そう。アメリカじゃあまり聞いたこと無い島だし……ああ。でも確か、ガン島は……モルディブにそういう名前の島があったな。もう片方は知らない。そこかは分からないけど」
「へえ、そうなんだ?……モルディブって何?」
「インド洋にある、沢山の島がある国。海とか景色が綺麗で、観光地になってる。外国だ」
「イエーー!!外国だーーー!!」
ノアがガッツポーズをした。速水は慌ててまだ決まった訳じゃ、と言ったが無視された。
「楽しみね、ノア」
「そうだ飛行機、乗れるかな?それとも船?!」
ノアが目を輝かせた。
「船じゃ遠いから、飛行機だと思う」
速水が言うとさらにノアははしゃいだ。
「お前等、出発は一週間後だ。その前にベスの復帰ステージだぞ。ほら風呂入って寝ろ」
レオンがまとめて、その日はお開きになった。
「おやすみ」
速水は言ってベッドに座った。
ベッド横のカラーボックス。そこには赤いヘアピンがある。
――海外か。楽しみだな。
――エリックが、このヘアピンの持ち主に会えるかもって言ってたな……。
速水は大人しくその日を待つ事にした。
……表面上は。
〈おわり〉