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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

キ印と灰泥

作者: 夜明

 八歳の少女が何者かに蹴飛ばされた。

 とある朝、テレビから聞こえてきた言葉に顔を上げる。女性アナウンサーの桃色に彩られた唇から放たれる事件の詳細を聞きながら、朝食のトーストに齧り付いた。

 事件が起こったのは夜中の三時。誰もがひっそりと寝静まる時間帯、風邪気味の母親の咳き込む音で目が覚めた少女がいた。夜中ということもあってか、母親がなにか酷い病気にかかっているのではないかと不安に思った少女は、いきつけの小児科の先生を呼ぼうと考えたらしい。こっそり家を抜け出して夜道を必死に走った少女だったが、十字路を曲がったとき、向こうから歩いてきた人物と衝突してしまった。

 だが本題はこの後だ。ぶつかったというその人物は謝罪することも避けることもせず、あろうことか、障害物を退けるように少女の小さな体を蹴り飛ばしたというのだ。少女の泣き喚く声に近隣の住民が出てきたときには既にその人物は姿を消していたらしい。だが近隣の住民、特に少女の母親が特に憤慨しているらしく、犯人の情報を求めているとのことだ。

 朝から嫌な話題を見た。眉をしかめながら、母手作りの野菜スープを口に運ぶ。そのとき、背後から声をかけられた。


「ニュースにするほどのことか?」


 振り向いた先に兄が経っていた。小馬鹿にするような顔付きでテレビを見る兄の手には、いつの間に取ったのか、テーブルに置いていたはずの私のコップがあった。

 手持無沙汰に兄が手を揺らすたび、コップに入った牛乳も揺れる。私は窘めるように言った。


「これだって立派な暴行事件でしょ」

「母親のために病院の先生って言ってもな、夜中の小児科だって開いてるわけないだろ」

「子供なりに必死に考えてたんだよ」


 その結果がこれじゃあな、と笑いながら兄はコップを煽る。自分の分を飲めばいいのにと思ったが、そもそも兄の朝食など最初から用意されていない。

 今日も夜遊びの帰りだろうか。たまにふらりと帰って来るくらいでほとんど姿を見せない兄、こうして会うのも随分と久しぶりな気がする。


 ニュースはまだ続いていた。少女本人から聞いた犯人の特徴をアナウンサーが述べている。少し小柄な背格好、フードを深く被っていたためパッと見の年齢性別は不明。着ていたものは泥だらけの黒いレインコート。

 泥だらけの、とまで聞いたところで私は思わず呟いていた。


「灰泥だ」


 灰泥。それは、近々世間を騒がせている不審者のあだ名だった。

 近所で多発する物騒な事件。ホームレスの襲撃や、公園の植木から上がる不審火、無残な姿の小動物の遺棄など。それらの事件は暴走族や不良とはまた違う、一人の人間の仕業だ、。

 最初に灰泥が目撃されたのはとある事件現場となった工事だった。事件があった夜、そこで黒いレインコートを工事現場の灰と泥で汚した不審な人物が目撃されていたらしい。その後も事件があった周辺で時折黒いレインコート姿の人物の目撃が相次いで発生した。明らかに犯人であろうその人物のことを、皆はいつしかコートに着いていた汚れから、灰泥と呼ぶようになったのだ。

 嫌な奴、と吐き捨ててテレビを睨む。


「こういう奴が世の中を駄目にするんだよ」

「なら殺せばいい」


 ギョッとして兄を見た。兄は半分ほど中身が減ったコップを持ち上げ、粘着いた笑みを浮かべていた。

 笑みの表情ではあるものの、今言った台詞は冗談には聞こえなかった。本心をころりと口に出したというような声色。兄はそのまま、コップを持った手を離した。


「こういう風に、パーンと」


 真っ直ぐ床に落ちたコップはガラスとなって砕け散る。中から零れた牛乳がフローリングに白く広がっていく。

 唖然とそれを見つめていると、廊下からパタパタというスリッパの音が聞こえてきた。扉を開けて入ってきたのは母だ。母は不思議そうに辺りを見回して首を傾げる。


「今、誰かと喋ってなかった?」


 それならそこに兄さんが、と言いかけた唇は途中で止まる。兄の姿は消えていた。さっきまでそこにいたはずなのに、母が入ってきた瞬間にはもう影も形もない。

 母は怪訝そうな顔で私を見た後、床で割れているコップを見て呆れた声を上げた。


「もう何やってるの。自分で片付けておいてね、お母さんもう行かなきゃ」

「…………はぁい」


 兄さんがやったのに。喉元まで出かかった言葉をのみ込んだ。きっとそれを言ったところで片付ける係が変わるわけでもない。

 母の気配を察知して逃げるなんて、逃げ足の速い奴。苦々しい思いを飲み込むように、私は口元に付いていた牛乳をぺろりと舐め取った。




 授業中ずっとあくびが止まらなかった。涙目になりながら教科書であくびを隠し、襲い来る睡魔と戦う。だがどうにも眠くて仕方がない。

 最近上手く眠れない。どれだけ早い時間にベッドに潜ろうが、翌朝目覚めたところで疲れも眠気もほとんど取れていない日々が続いていた。日中耐え難い睡魔が続いている。

 原因は分かっている。朝起きて学校へ向かうときが憂鬱だから、学校で過ごすこの時間が恐怖でどうしようもないから。そんな不安が睡眠の妨げになっているのだろう。

 重い溜息を吐く私の眼前にぬっと顔が現れた。突然のことに驚き目を見開く。だがそれが誰かを認識すると、驚愕は恐怖へとじわじわ変わっていった。原因が来た、と脳内で呟く。


「なんか寝不足みたいじゃん。酷い顔してるよ」


 そこに立っていたのはクラスメートの女子が数人。そのうちの一人、檀浦さんが私の顔を覗き込んでいた。優し気で心配そうな声色とは裏腹に彼女の顔にはニヤニヤと嫌らしい笑みが浮かんでいる。

 檀浦さんが胸ポケットから取り出した小さな手鏡を私に突き付ける。鏡に映る私の怯えた顔。その頬に突然平手が叩き込まれた。弾けるような痛みに悲鳴を上げる。檀浦さんと友人達の笑い声が教室に響いた。


「目を覚ましてあげたんだよ、感謝してよ。キ印」


 頬が真っ赤になっているのが鏡で分かる。檀浦さん達は笑いながら自分達の席に戻って行った。教室中の視線が一瞬私に集う。だがそれはすぐ、何事もなかったかのように逸らされ、皆はまた休み時間の喧騒に戻っていく。

 私は自分の席で一人、俯いて机上に目を落としていた。木目がぼやけ、見えなくなる。こうして虐げられる日々には慣れている。何をしたわけでもないのに檀浦さん達のターゲットにされいじめられる毎日。キ印、と古臭く酷いあだ名を付けられ馬鹿にされる生活。こんなことは日常茶飯事のことだった。

 だが、いつも思っていた。この状況をいつか、いつか、逃れることができたらと。




 事態が動き出したのは翌朝だった。いつも通り朝食を取りながらテレビを見ていると、昨日と同じ女性アナウンサーが再びニュースを報道していた。飛び込んできた内容に私は目を見開く。

 例の灰泥がまた被害を出したらしい。しかしこれまでと違うのは、被害者が意識不明になるほどの重体を負っているということだった。頭部を鈍器で殴打されたことによる脳挫傷。現在も被害者は病院で治療中らしい。被害者の名前は檀浦さんの友人で、同じく私をいじめてきたクラスメートの子だった。

 じわじわと胸に滲む感情を感じながら登校する。教室に入った途端、普段とはどこか違う沈鬱な空気を感じた。話は既に広まっているようだ。檀浦さんと友人達が、信じられないと言いたげな顔で座っている。直後に教室にやって来た担任の顔も青ざめており、被害に遭ったクラスメートについて長々と説明した後、皆にも身の安全を呼びかけていた。

 教室の真ん中にぽつりと空いた一席。今は空っぽの机には、確かに昨日その子が座っていた。静かにその空席を見ながら、私は膝で拳を握って俯いた。

 胸に沁み出してくる不安と恐怖と哀れみ。だが、それ以上に強く滲み出す喜びを隠したかったから。


 家に帰って扉を開けると、満面の笑みを浮かべた兄が出迎えてくれた。おかえり、と言った後兄は言葉を続ける。


「良かったな」

「何が」

「一人いなくなったんだろ。残りも全員いなくなればいいよな」


 反射的に頷きかけて、慌てて首を横に振る。違う、と言葉に出して言いながら兄を睨み付けた。


「そんなこと思ってない」


 嘘つき、と兄が笑った。


「ずっと思ってるくせに、あいつらなんか殺してやるって」


 これ以上彼の話を聞いていたくはない。部屋に戻ろうとする私に兄は言う。


「どうせなら心の底から殺したいと願えばいい。今入院してる奴だって元気になればまたお前をからかってくるんだ。だったらトドメを刺してしまえば楽になる」

「私はそんなこと思わない」

「そうすればもういじめられなくて済むんだぞ?」

「……私は道徳を外れることなんてできない」


 どれだけ心に檀浦さん達への殺意を抱いても、実行に移すことなど私にはできない。道徳に外れた行いなどできるわけがない。

 期待外れの返答に呆れたのだろうか。どこか人を馬鹿にしたような声が背後から聞こえる。


「本当は道徳なんて外れたいくせに。だから」

「だから……?」


 続きの言葉が聞こえてこない。不思議に思って振り返ると、また兄の姿はなかった。目を丸くしてから、ゆっくりと頭を振る。

 兄が何を言いたかったのか分からない。だがせめて、最後まで言ってくれればいいのに。



 その日の夜。寝る間際、明日の準備をしようとクローゼットを開けた私は足がつんのめり、クローゼットの中に倒れ込んでしまった。衣服を散乱させながら尻餅を突いた私は、自分の愚鈍さに呆れながら痛む腰を擦る。クローゼットを出ようとしたとき、ぐちゃぐちゃになった衣服の間から何かが覗いていることに気が付いた。何かが入ったビニール袋だ。また兄の私物だろうかとふと思う。

 兄に部屋はない。ふらりと現れてはふらりと消える、ほとんど家にいることのない兄のために部屋を作るなんて無意味だと両親も思っているのだろう。兄自身それに不満を言っている様子はなかったが、道で拾った小石や財布など適当な物を私のクローゼットに放り込むくせがあるらしい。気が付けば身に覚えのない物が増えていることがあるのだ。きっと兄の仕業だろう。

 またか、と呆れながら衣服の隙間からそれを引っ張り出す。今度兄の私物を全て捨ててしまおうと決心しながら、ビニール袋を開けて中身を床に出した。ゴトリと重い音がする。

 床に転がったのは血に濡れた金槌。それと、灰と泥に汚れた黒いレインコートだった。




 止めなければ。兄を止めなければ。

 学校で授業を受けている間も、そのことばかりが思考に渦巻いて集中できなかった。

 灰泥は兄だった。

 その事実は私の心臓を縮み上がらせた。身内が犯罪者であるということへの恐怖と罪悪感に動揺が収まらない。兄を止めなければ。両親は最初から兄のことなど気にもかけていない、まるで自分達の子ではないとでもいうかのように存在自体をないがしろにしている。そんな二人に兄が灰泥だと話したところで、そこまで緊迫感を持ってくれるだろうか。どうにせよ二人とも仕事で忙しく兄に割く時間もそうそうないだろう。私がやらなければいけないのだ。

 それから毎晩のように兄を止めようとする日々が始まった。だが運の悪いことに、事実に気が付いてから兄と出会うことはぱったりとなくなっていた。家にも帰ってこない。仕方がないので夜遅くまで街中を探し回っても簡単に見つかるわけがなかった。学校を連日休むわけにもいかず諦めて眠りに着くも、決まって私が眠った後に限って事件が起こる。

 もしかして兄は私の代わりをしているのでは、と気が付いたのは二回目の重体事件が起こったときだった。犠牲者はまたしても檀浦さんと仲の良かった一人、私をいじめていたグループの子だった。次も、その次も。

 次々と仲良くしていた子達が被害に遭うことに、檀浦さんもとっくに気が付いていた。あるとき私の席にやって来た彼女は問答無用で私の胸倉を掴み上げてきた。


「あんたがやったんでしょう」


 違う、と言いたかったが声が詰まって上手く否定できなかった。檀浦さんはガクガクと私の体を揺さ振って叫ぶ。


「このキ印!」

「わ、私じゃないよ」

「じゃあ誰だって言うの」

「……兄さん、兄さんだよ」


 檀浦さんの迫力に耐え切れず、思わず答えてしまう。彼女の目が大きく見開かれた。

 おしまいだ、と思った次の瞬間、檀浦さんの渾身の力を込めた平手が顔に叩き込まれる。ギャッと声を上げた。この間よりずっと痛い。


「本物のキ印ね、あんた」


 怒りに震える声を残して檀浦さんは去って行った。痛みに涙目になりつつ、檀浦さんの言葉に疑問を浮かべる。犯人の正体を暴露してしまったというのに彼女の反応はなんだったんだ。今の平手は兄への恨みを妹にぶつけたというよりは、私の言葉を信じていない風だった。嘘など言っていないのに、何故。

 ヒリヒリと痛む鼻を押さえていると、手の隙間から血が流れ出してくる。保健室に行った方がいいよ、と近くの席の子が恐る恐る言ってくれた。それに従うように、教室から逃げるように、私は鞄を持って廊下に出た。

 保健室の先生は私の顔色を見て早退を進めてきた。どうやら度重なる寝不足と疲労は私の顔色を相当酷いものにしていたらしい。結局言われるままに早退した私は、檀浦さんや兄のこともあってかベッドに倒れ込むように寝てしまった。

 雨の音で目が覚めた。窓の外に立ち込めた暗雲から大量の雨粒が降り注いでいる。ゆっくりと上体を起こし、時計を見る。もう夕方だ。大分眠っていたらしいが、やはり疲労が取れた気はあまりしなかった。

 重い体を引きずるようにベッドから下りようとしたとき、カサリと音がした。枕元に一枚のメモ用紙が置かれている。誰が書いたのだろう、母でも帰って来たのだろうか、と思いながらそれを見た。

 兄の字でこう書かれていた。

 檀浦を殺す。




 教室に飛び込んだ私を、まだ残っていた数人の子達が驚いた顔で見つめていた。放課後も過ぎた教室にはほとんど人は残っていない。目を丸くしていた一人に声をかける。


「檀浦さんは?」

「え、さっき帰ったところだけど」


 不思議そうな顔をするその子に礼を言って駆け出す。走り続けたせいで肺が苦しく、足が震える。けれど急がなければ。

 走るのには傘を差すのが邪魔で、咄嗟にクローゼットに置きっぱなしだった黒いレインコートを羽織って出てきた。雨がレインコートに付いた灰と泥を落としていく。目深に被ったフードから周囲に必死に目を凝らした。

 車通りの多い通学路にある歩道橋。そこを歩く赤い傘の下から檀浦さんの顔が覗いていた。雨の中、鬱陶しそうな顔で携帯を弄っている。彼女はまだこちらに気が付いていない。階段を駆け上がって彼女の元に走り寄った。足音に気が付いた彼女がゆっくりと振り向く。手を伸ばせば届きそうな距離、ほっと安堵の息を吐いて、瞬いた。

 兄が彼女の背後に立っていた。

 兄の手が彼女を勢い良く押す。悲鳴を上げながら歩道橋から落ちそうになった彼女の手首を咄嗟に掴んだ。回りながら落ちていった携帯が車道に転がり、自動車のタイヤに踏み潰されて粉々になる。ぶらぶらと揺れる檀浦さんの体重を必死に支えるのは私の左腕だ。だが隣で、兄が高笑いを上げながら彼女の肩をぐいぐいと右手で押している。


「兄さんやめて! これ以上誰かを殺そうとしないで!」

「何言ってるんだ、まだ誰の命も取っちゃいないさ。でも、こいつだったら殺してもいいだろう?」


 茫然と兄の言葉を聞く。目をキツク瞑り必死で首を振って否定しているのに、兄の言葉は止まらない。


「こいつは死ぬべき存在だ。お前もずっと思ってただろ」

「それでも私は檀浦さんを殺せない!」

「道徳から外れたくないから?」


 あなた、とか細く震える声が聞こえて目を開けた。恐怖に怯えた様子の檀浦さんが私を見つめている。雨に濡れた手が今にも滑りそうで、彼女の手首を強く掴んだ。

 檀浦さんの胸ポケットから鏡がずり落ちそうになっていた。キラリと光を反射させるそれが、私の目に映る。


「さっきから何言ってるの? なんで、一人で騒いでるの」


 檀浦さんは怯えた声で続けた。この状況でそんな意味不明なことを言われるとは思わず、思わず口をポカンと開けて横を見る。ニタニタと笑う兄は今も彼女の肩を強く押していた。

 檀浦さんの目に浮かぶ恐怖の色は、今にも落ちそうな状況によるものだけじゃないようだった。震える声が、だって、だって、と雨音の中に混じる。


「道徳から外れたくないなら、なんで」


 兄の言葉も聞こえてくる。叩き付けるような激しい雨音の中、兄と檀浦さんの声がほとんど同時に耳に入ってきた。



「なんで私みたいな存在を生みだしたんだよ」

「あんたにお兄さんなんていないじゃん」



 揺れる彼女の体に合わせ、鏡が私の姿を映し出した。雨に打たれるレインコート姿の私。

 左手で必死に檀浦さんを掴み、右手でその肩を強く押す、私の姿。

 ニタリと嫌らしい笑みを浮かべた私一人だけの姿。


 力の抜けた手から檀浦さんの手が離れていく。

 悲鳴が聞こえ、彼女の姿が遠ざかっていく。

 直後、甲高いブレーキ音が空気を切り裂いた。






「解離性同一性障害ですね」


 カルテを見ながら、医師は淡々と小難しい言葉を並べ立てた。環境による抑鬱、人格の入れ替わり時の記憶の有無。神妙な顔で説明されることのほとんどは理解できなかったが、私も両親も黙って話を聞いていた。

 暴力行為や迷惑行為など道徳から外れた行いをすることにより、いじめによって溜まっていたストレスを発散させる。無意識のうちに、別人格で。いくら眠っても疲れが取れなかったのも納得がいった。最初から眠ってなどいなかったのだ。私が眠りに着いた頃、兄として私の別人格が目覚めていたのだ。


「私達がいけないんです。この子の不安に気付けていなかったから」

「大事な一人娘なんだ、もっとしっかり見ていれば……」


 両親が声を震わせていた。一人娘、という言葉が私の胸に刺さる。一体いつから私は自分に兄がいるなどと錯覚していたのだろう。

 最初から兄なんていなかったんだ。これまで兄と話してきた会話も、交わした行動も、全て私が一人でやっていたことだった。突然姿が消えるのも、最初から私の妄想だったから。

 灰泥は私だったんだ。




 久しぶり学校へやって来た私を、クラスメート達は沈黙という形で出迎えてくれた。どことなく遠巻きにされる空気。様子を窺うような視線があちこちからこそこそと向けられる。当然だ。私がしたことはそれだけの意味があったのだから。

 ぼんやりとする私の眼前にぬっと顔が現れた。檀浦さんだ。彼女は包帯でぐるぐる巻きになった左手を見せつけるように突き出しながら、有無を言わさず私の手を取ってどこかへと引っ張っていく。無言でついて行った先は女子トイレだった。誰もいない女子トイレで私に向き直った彼女は、丸めた拳で私の額を殴り付ける。


「よくも人を殺そうとしてくれたなキ印!」


 真っ赤な顔で彼女は叫ぶ。間一髪車に轢かれることなく骨折のみで済んだ彼女は、こうして今も私に突っかかってくる元気はあるようだった。

 怒り狂う彼女をぼうっと見ながら思う。檀浦さんはこれからも私をいじめ続けるだろう。殺されそうになったのだから、きっとこれまで以上に辛く苦しいいじめが待っているに違いない。

 ああ、それは嫌だな。


 檀浦さんがもう一度私を殴ろうと拳を振り上げる。だが次の瞬間、キツクつり上がっていた目が丸くなって、私の手を見下ろした。

 私の手からチキチキと硬質な音が聞こえてくる。視線をそこに落としたまま、檀浦さんは呆けたように言った。


「そのカッターは何?」


 兄が嫌いだった。人をいじめてからかうような、非道なことを平気でするような兄が、大嫌いだった。兄のようにはなりたくないと思っていた。

 けれど、なりたくないと思っていた兄は、私が生みだした妄想だったのだ。


「私はこの不幸なキ印の生涯を終わらせるの」


 何故兄のような存在を生みだしたのかなんて決まっている。

 本当は灰泥のようになりたかったから。ずっとずっと、憧れていたから。

 善に生きキ印と呼ばれる人生を終わらせて、非道を行い灰泥のように笑う人生を始めるのだ。


 女子トイレの鏡の中。カッターを振り上げる私越しに、いないはずの兄が笑っているように見えた。

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― 新着の感想 ―
[一言] お母さんが「今誰かと喋ってた?」って言ったところから薄々兄が妄想の存在なんじゃないかと思ってましたが、まさかキ印ちゃんの別人格だったとは思いもしませんでした。「何で私みたいな存在を生み出した…
[良い点] 文章読みやすかったです。 [気になる点] こういうテーマ好きです。なので見慣れているせいでしょうか?展開が思った通りでした、残念です。初めて兄が出てきた時点でわかってしまいました。もうひと…
2016/06/04 11:15 退会済み
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