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学長室の中では、呆れたえった初老の男と、ピンピンしている重症なはずのアデルがのほほんとお茶していた。因みに、お茶を入れているのはアデルである。
アデルは自分に原因があるなしに関係なく、しょっちゅうここに呼ばれており、学長がユアンと同じ種類の人間であると身を以て知っているのだ。一見紳士のダンディさんであるが、学長の入れるお茶は、一口であの世に逝ける。少なくともアデルは逝きかけた。
死にたくないアデルは、以来なにがあっても学長の淹れたお茶は飲まない。
呼び出しておきながら、当たり前のように怪我人の淹れたお茶を飲みながら、学長先生は溜息をついた。
「しかしな…。庇ったおぬしより、アイリーの方が重傷とはのう……。」
どこか疲れ切ったようにも見える。いつもはきっちりと撫でつけられている七三ヘアーから、灰色のおくれ毛がはらりと落ちた。
「いやぁ、自分でも死ぬかなって思ってたんですけどねー。上手く受け身ができてたみたいで、なんか、かすり傷と打撲だけですんじゃいました……」
「お主、本当に人間かのう?」
「そう言われると…なんか、自信無くなってきました ……」
あの状況で、アイリーと馬車のクッションになるべく両者の間に入り、アイリーを抱き込むことができた時点で、よくもまあ間に合ったものだ。奇跡としか言いようがない。
しかも、庇われたアイリーは、直接的な衝撃は受けなかったものの、全治二カ月の重傷で、満身創痍で面会謝絶状態である。対するアデルは、馬車とぶつかったときと地面に叩きつけられた時の軽い打ち身と、擦り傷だけ。骨折もなにもしていないらしい。
奇跡すぎた。
「まあいい。お主が人間でなくとも、海学舎から最悪の醜聞がでなかったことが重要なのだ」
「……はあ、そうですか…」
学長の立場的にはそうなんだろうが、人としてはまずいのではないだろうか。というか、この人の人間らしさって、常識ってどこにあるんだろう?
ふと考えてみたが、残念ながらアデルの六年間の記憶の中には、常識的な学長は存在していなかった。
「実はお主がユーアルレーンの呼びだした『さかな』ではないかという話があっての」
「いや、『さかな』って言うならユアンのほうですよ!俺は常識持ってますから!」
自分のほうが人間としては正しい行動ができていると自負しているアデルには、この発言だけは納得できなかった。自らの言動で何かと騒動を引き起こす手のかかるユアンより人間的に下に見られたら、アデルはもう人間として頑張っていけない。
しかし、どことなくユアンと同系統の学長は、アデルの必死さを気にも留めない。
「ほう?暴走する馬車にぶつかっても軽傷だったアルデリークと、元凶ではあるが馬車の中にいて全身打撲で捻挫もしているユーアルレーン…どちらが非常識かのう?」
「いや、馬車の中にいてそれだけで済んでるユアンも十分人外認定でいいでしょう!」
このまま、人間としてユアンに劣るなんて評価がついたら…。と、アデルは粘ってみるのだが、人生そんなに甘くない。
「片やお主は板張りの屋根と硬い地面、ユーアルレーンはクッションに埋もれた馬車の中だったではないか」
アデルは、それはあいつがクッションにこだわるからで…!と言い訳したかったが、意味のないことだと気付いたので沈黙した。ユアンのクッションへのこだわりは有名であるため、アデルの趣味と言う不名誉だけは免れるだろう。怪我の功名になったとはいえ、アデルはウサギさんのクッションやら等身大くまさんクッション(ユアン談。どう見てもぬいぐるみでしかない)の持ち込みには反対したのだ。見られたら恥ずかしすぎる。
「…なんで、そんなわけのわからないことに拘ってるんですか、学長先生」
「いや、実はの。お主が言ったとおり、ユーアルレーンが『さかな』ではないかという噂もあるのでな?」
だからなんだ!だんだんイライラして叫びたくなってきたが、アデルは必死にその衝動と戦っていた。権力的に敵に回すと面倒な人だから。
「職員の間で賭けになっておるのよ!」
「ふっざけないでください!!」
「ふざけてなどおらん!これを解決せねば、気になって仕事ができないなどと抜かすアホな職員が増えておる!さっさと答えぬか!」
「バカなんですか、先生たちは!『さかな』が学生として海学舎にいるわけないでしょう!」
これが、未来の共人たちを育てるのか…。と思うと、やるせなさ過ぎて涙が出そうだった。
(終わったな…)
アデルの悲哀とは裏腹に、学長は満足そうに頷いている。なにがそんなに嬉しいのか、理解できない。学長こそ『さかな』なんじゃないかとアデルは思った。
「やはりな。賭けはわしの一人勝ちじゃ!」
「学長先生以外は、どっちかが『さかな』だと思ってたんですかっ!?」
「そんなわけなかろう」
いかにも心外だ、という顔をした学長に、アデルもホッと息をつく。
よかった。まだちゃんと常識ある先生たちもいたのだと。
「賭けに参加されてないまともな先生もいらっしゃったのですね…」
「いんや。職員の八割が、両方『さかな』に賭けておったんじゃ」
「常識はどこ行ったんですか!学生を賭けの対象にしないでください!!」
学長は、なにか未知の『さかな』でも発見したかのような目でアデルを見た。要するに、理解できない何かを見た時の眼。何故そんな目で見られるのか、アデルには不思議で仕方がないとともに、わけのわからない苛立ちを感じる。
「……あの、失礼します?」
「やあ、アデル、やっぱりいたね。申し訳ありません学長。許可を頂かず入室してしまいました。一応ノックはしたのですが…」
唐突に表れたのは、ホリィとユアンだった。ホリィが困惑を体現したかのような顔でキョロキョロと見回し、ユアンはおっとりと微笑んでいる。
呆然と二人を眺めていたアデルは、ホリィと目があった瞬間ぎょっとした。
「アデル先輩…!」
今にも死にそうな目だった。あれは、地獄を見てきた者の目だ。いつも無理に男らしくあろうと張り詰めている緑の瞳が、今はぐらぐらに揺らいでいる。
アデルは慌てて視線を二人の後ろに移した。瞬時に顔が引きつる。
鬼がいた。大量の鬼が、ユアンの背後からホリィを睨みつけている。怖かった。
「ホリィ…ごめんね……。あとで、ちゃんと言って聞かせるから…」
「お願いします!」
いつもはどこか斜に構えているホリィが必死だった。アデルは申し訳なさに泣きたくなった。やはり、ユアンから目を離すべきではなかったのだ。
「ん?ホーリルティアも来たか。呼びに行く手間が省けたな」
「……っ!」
嫌いな本名を呼ばれて、ホリィから怒りのオーラが立ち昇っているのが見えた。ひたすらに男らしさを追い求めるホリィには、無駄に可愛らしいこの名前が邪魔で仕方ないらしい。
ユアン(ファン)からの攻撃のみならず、学長の(空気を読まない故の)精神的ダメージを加えられ、ホリィの我慢のダムが決壊してしまうのも時間の問題ではないかと思われた。
「学長先生、ユアンとホリィも呼びに行く予定だったんですか?」
「うむ。先にお主の状態を確認してからと思っておったのでな。まぁ健康そうだし問題ないだろう?」
なにが。
勝手に自己完結している学長の問いかけに対し、三人の学生が思った事は同じだった。
「よし。やはりお主らに行ってもらおう」
「……すいません、何の話ですか?」
この中では、まだ学長のペースに慣れていたアデルが質問役になったのは、致し方ないことと言えるだろう。しかし、学長の顔は、なにを言ってるんだと言いたげであった。
ユアンとホリィの中に、微かな、しかし断固とした殺意が生じた瞬間であった。
この後、彼らはすくすくとその殺意を育てていくことになるのだが、幸か不幸か、この時の二人には知る由もないことであった。アデルの中では既に成長しきって、心の中でだけ暴れ回っているので除外しておく。
ただ、唖然とする二人に、そっと同情を送っておいた。…のだが、次に学長の口から飛び出した台詞を理解するに当たり、心の中だけで暴れ狂っていた殺意の手綱を離すべきか、真剣に悩むこととなった。