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それは突然訪れた。
――透き通った青い空が広がっている。洗濯物でも干せばすぐに乾きそうだ。
コクランはそんなことを考えながら、いつものようにアキハの家へと向かっていた。
フィオーレは高い建物が少ない。丘は多くあるものの、天に高い場所程神聖とされる為、教会や城くらいしか建っているものはない。つまり、平野である市街地のどこかで異変があると、すぐに分かってしまうのである。
「……煙?」
その時も例外ではなかった。ネピの森やピオーネ皇国がある方向――北北東の方向に、一筋の黒い煙が上がっている。
火事だろうか? いや、彼の記憶が正しければ向こうには砦しかなく、人が立ち寄るような場所なんて無いはずだ。
直後――
――爆発音が、轟いた。
何故だろう。危険を示す信号が、耳鳴りが頭を痛めるのに、体が硬直して動けない。人々が何かを叫んでいる。逃げ惑っている。
脳内処理が追い付かないまま、コクランは弾かれたように流れに乗って走り出した。背後からは悲鳴をあげながら人々が迫り、立ち止まっている暇などなかった。
また爆発音。今度は間髪入れずに三つ、立て続けに。
誰かが泣いている。誰かが――笑っている。
ついに全身が悲鳴をあげ、コクランはその場に倒れ伏した。だが、あれから3kmは走ってきた。
道の端にずるずると足をひきずりながら向かい、南西の方向を見つめた。
炎がうねり、街を燃やそうと――今、その真紅の体の中に取り込もうとしている。
青空は最早見えず、快晴だった空には煙が蔓延していた。太陽の光も遮られ、一帯が暗くなる。
「何なんだよ……何なんだよぉ……」
漏れる呟きは同じものばかり。わけがわからない。冷静になれない。
また爆発音が響く。誰かが転んだ。誰かがそれを踏みつける。
子供が泣き、母親らしき人物が子供を抱えて走っていく。
「……ローズ」
それを見、まだ幼い妹の姿を脳裏に浮かべる。ナツメがいるから大丈夫か? いや、そんなことは言っていられない。
とにかく、ここを離れなければ。そう思っていた矢先、人々が走っていった方向から、悲鳴と罵声が聞こえてきた。
「テメェら――死にたくなければ奴隷となれ」
悪魔のように笑う男。その男は、金髪と碧眼を持ち、血のような赤い制服を身に纏った――ソルティーナ連合国の軍人だった。
コクランは無意識に、シンヤから受け取っていた鎌に手をかけていた。常に所持しているように――そう何度も言われていたのだ。
ケースを開き、近くの民家の陰に隠れる。男が近づいてくる。
直後、コクランはその男が『掴んでいた』物を目にした。黒い髪を束ね、白い瞳は恐怖に見開かれ、その胸は赤く染まっている――。
「……ぅあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
あれは、ナツメじゃない――
鎌を振り下ろす。男がそれに気づき、咄嗟に左腕で鎌を防ごうとしたが、刃は腕を斬り落とした。
鮮血が噴き出る。驚愕と激痛に歪む男の顔の下、喉に一閃。胴と切り離されたそれは宙を舞い、大地に無造作に落ちた。
血が広がっていく。近くにいた人々は奇声をあげ、即座にコクランから離れていく。
そんな中、彼はナツメに駆け寄った。
「おい……姉ちゃん……嘘だろ、おい……!」
何度声をかけても、何度体を揺すっても、その表情が変わることはない。
不意にコクランが顔を上げると、男が歩いてきた道の果てに、小さな命が放り出されているのが見えた。あれは、あの服は、ローズが気に入っていた、亡き母の手作りの――。
やがて思考が追い付いていく。逃げる途中、見せしめとして殺されたナツメとローズ。そしてナツメの屍は、人々を牽制する道具として男の手にあった。
その男は、コクラン自身が、
「……あ……ああ、あ……」
血に染まった両手。返り血を浴びた全身。
涙が止まらない。
「あ……あ……うわあああああああああああああああああ!!」
喉が枯れる程の絶叫。それは、恐怖。
フィオーレを蝕み始めた戦争と、家族を亡くしたことと、――己が犯した罪への恐怖。
そのままコクランは気を失った。未だ乾かぬ血が大地に染み渡っていく。