「お前を愛することはない」と冷徹公爵に言われたので、壁のシミとして生きることにしたら夫が泣いて縋ってきた
「——いいか、よく聞け。俺はお前を愛することはない。この結婚は形式上のものに過ぎない。お前には公爵夫人の肩書きと、衣食住の保証は与えよう。だが、それ以上のものを俺に求めるな。私の視界に入るな。私の人生に干渉するな。お前はただの置物として、この屋敷の隅で息を潜めていればいい」
豪奢なシャンデリアが冷たく輝く公爵邸の書斎。
初夜の挨拶に訪れた私、ヴィオレットに向かって放たれたのは、新婚の夫であるアリステア・ヴァン・クロムウェル公爵からの、凍てつくような拒絶の言葉だった。
彼は「氷の公爵」と渾名される男だ。彫刻のように整った顔立ち、深い夜の海を思わせる紺碧の瞳、そして一切の感情を排した冷徹な声。その美しさは凶器のようで、並の令嬢ならばその一瞥だけで射抜かれ、絶望に身を震わせるだろう。
だが。
「……はい。承知いたしました、閣下」
私は深く、優雅に頭を下げた。
震えもしなければ、涙も見せない。ただ、凪いだ海のような心でその言葉を受け止めた。
もともと、私という人間は「無」に近い存在だった。
没落寸前の伯爵家の末娘として生まれ、継母や義姉たちからは透明人間のように扱われてきた。「お前は家の恥だ」「目立つな」「そこにいないものと思え」と言われ続けて育った私にとって、誰かの期待に応えないことや、誰からも顧みられないことは、日常茶飯事どころか、生存戦略そのものだったのだ。
アリステア様は、私のあまりに淡々とした返答に、わずかに眉を寄せた。
「……聞き分けがいいな。泣き喚くか、あるいは愛を乞うて縋り付いてくるかと思っていたが」
「滅相もございません。閣下のご要望は『愛さないこと』、そして『視界に入らないこと』。左様ですね?」
「そうだ。お前という存在を、この屋敷の風景の一部としてすら認識したくない」
「風景の一部……。なるほど、深く得心いたしました」
私はもう一度、深々と頭を下げ、書斎を後にした。
背後で扉が閉まる音を聞きながら、私は自分の胸に手を当てる。
悲しみはない。むしろ、明確な「役割」を与えられたことに対する、ある種の清々しさすらあった。
「風景の一部……。いいえ、風景にすらなりたくないとおっしゃるのなら、もっと究極の存在を目指すべきね」
自室に戻り、私は鏡に映る自分を見つめた。
地味な茶色の髪に、特徴のない灰色の瞳。美しすぎる公爵夫人の座には、最初から不釣り合いな容姿だ。
「よし、決めました。私は今日から、この公爵邸の『壁のシミ』になります」
シミ。それはある日突然現れ、そこにあるのが当たり前になり、やがて誰の意識にも登らなくなるもの。掃除の際に見つかれば忌々しく思われるかもしれないが、基本的には無視され、風景に溶け込み、誰の人生も邪魔しない。
愛されない女にふさわしい、完璧な終着駅ではないか。
*****
翌朝から、私の「壁のシミ」生活が始まった。
まずは外見の徹底したカモフラージュだ。
公爵家から用意された豪華なドレスは、すべてクローゼットの奥に封印した。代わりに、使用人たちが着る制服よりもさらに目立たない、くすんだベージュやグレーの質素なワンピースを選んだ。髪も編み込んですっきりとまとめ、華やかな飾りは一切排除する。
次に「気配の遮断」だ。
私は幼少期に培った「家族の機嫌を損ねないための隠密行動」のスキルをフル稼働させた。
足音を立てない。衣擦れの音をさせない。そして何より、自分の感情の揺れをゼロにする。
公爵邸の長い回廊を歩くとき、私は壁際にぴったりと身を寄せ、影と同化するように移動した。
使用人たちが忙しなく立ち働く中を、私は「空気」として通り過ぎる。
「あら? 今、風が吹いたかしら?」
メイドのひとりが首を傾げたが、私の姿には気づかない。彼女のすぐ横を通り抜けたというのに。
成功だ。私のステルス技術は、どうやらこの屋敷でも通用するらしい。
食事も、夫と同じテーブルにつくことはない。
彼が「視界に入るな」と言ったのだから、当然だ。私は早朝、誰もいない厨房の隅で、余ったパンとスープを静かに口にする。あるいは、彼が執務に出かけた後の食堂の隅で、給仕が片付けを始める直前に、影のように現れて栄養を摂取する。
アリステア様は、私の徹底ぶりに最初は満足していたようだった。
結婚して一週間。彼は一度も私と顔を合わせなかった。彼にとって、私は「存在しないもの」として処理されていた。
しかし、異変は十日目あたりから起こり始めた。
アリステア様が夜、執務室で書類をチェックしていた時のことだ。
私はその時、部屋の隅にある書棚の影で、じっと「シミ」になりきっていた。
理由は単純だ。以前、執事から「閣下がお使いになる予定の古い魔導書を、書棚の三段目に整理しておけ」と命じられていたからだ。作業中、予期せず閣下が戻ってこられたため、私は即座にシミ化して退避したのである。
アリステア様は椅子に座り、疲れたように眉間を揉んだ。
「……喉が渇いたな」
彼は独り言をこぼし、ベルを鳴らそうとした。だが、使用人を呼ぶのが億劫だったのか、手元にある空のグラスを忌々しげに見つめて、作業を再開した。
シミである私の出番だ。
私は音もなく移動した。
閣下が書類に目を落とした隙、まばたきをするその一瞬。
私はサイドテーブルにあった水差しから、音を立てずにグラスへ水を注いだ。
そして、再び元の位置へと戻り、壁と一体化する。
数分後。アリステア様が無意識にグラスへ手を伸ばした。
彼は水を一口飲み、そのまま書類に目を戻そうとして——凍り付いた。
「………………は?」
彼は自分の手元にあるグラスを凝視した。
さっきまで空だったはずのグラスに、なみなみと水が注がれている。しかも、水面はまだ微かに揺れている。
「誰だ。誰かいるのか?」
彼は鋭い視線で室内を見渡した。
彼の視線が、私が立っている書棚の隅を通り過ぎる。
私は呼吸を止め、心拍数を下げ、精神を「無」にした。私は壁だ。私はシミだ。私はこの屋敷の歴史に刻まれた、ただの汚れに過ぎない。
アリステア様の紺碧の瞳が、私の鼻先数センチの空間を虚無として捉えた。
「……気のせいか。疲れすぎているらしいな」
彼は首を振り、再びペンを走らせた。
ふふふ、と私は心の中で(声を出さずに)笑った。
冷徹公爵の鋭い感性をもってしても、究極のシミとなった私を見破ることはできない。
これこそが私の望んだ、穏やかで誰にも邪魔されない「無」の結婚生活だ。
*****
それからの私は、ますます「シミ」としての完成度を高めていった。
アリステア様が脱ぎ捨てた上着を、彼が振り返る瞬間に回収してクローゼットへ。
彼が探し物を始めた瞬間に、その視界の端にそっと目的の品を配置。
彼が冷えを感じて肩をすくめた瞬間に、窓の隙間を閉め、背後の暖炉に薪をくべる。
すべては「彼に気づかれないように」行うのが鉄則だ。
もし気づかれたら、それはシミとしての死を意味する。
私はこのスリルを楽しんでさえいた。
しかし、アリステア様の様子が次第におかしくなっていった。
かつての冷徹で理知的な彼はどこへやら。最近の彼は、誰もいないはずの空間に向かって、怯えたように問いかけることが増えたのだ。
「……おい。そこにいるのか? ヴィオレット」
ある日の深夜。寝室の前の廊下で、彼は不意に足を止めてそう呟いた。
私は彼のすぐ背後、三歩下がった位置で影になりきっていた。
「……答えてくれ。お前、そこにいるんだろう? 最近、屋敷の様子がおかしい。まるで見えない妖精か、あるいは幽霊にでも取り憑かれたようだ」
私は動かない。
閣下、私は妖精でも幽霊でもありません。
あなたが望んだ「風景の一部」——いえ、それ以下の「シミ」でございます。
「初夜にあんなことを言ったのは……いや、お前が大人しすぎるのが悪いんだ。普通はもっと反発するものだろう? なのに、お前はあの日から一度も私の前に姿を見せない。食事も、茶会も、夜の営みどころか……一度もだ!」
アリステア様の声が、少しずつ熱を帯びていく。
冷徹公爵と呼ばれた男が、独り言にしてはあまりに必死な形相で、虚空に向かって訴えている。
「使用人に聞いても『奥様は確かにいらっしゃいます。お元気そうです』としか言わない! だが、私はこの十日間、お前の姿を一度も見ていないんだ! なのに、私の周りでは不思議なことが起きる。仕事の資料は完璧に整理され、好みの茶が絶妙なタイミングで用意され、夜中に目が覚めれば毛布がかけ直されている……!」
彼はガシガシと自分の頭を掻きむしった。
「怖いんだ! 姿が見えないのに、至るところにお前の気配を感じる! どこに行っても、何をしていても、まるでお前に見守られているような……いや、監視されているような……! 頼む、ヴィオレット! 出てきてくれ! 怒ってもいい、罵ってもいい! 愛さなくていいと言ったのは撤回する! だから……姿を見せてくれ……!」
アリステア様はその場に膝をつき、顔を覆った。
その肩が、微かに震えている。
おやおや。
私は困惑した。
「愛さない」「視界に入るな」というリクエストを120%の精度で完遂していたというのに、なぜ彼はこんなにボロボロになっているのだろうか。
シミとしては、ここで姿を見せるのは敗北だ。
だが、雇い主(夫)の精神状態がここまで悪化しては、屋敷の「壁」としての管理責任が問われるかもしれない。
私は迷った。
シミを貫くべきか。それとも、一度人間としての形を保つべきか。
その時、アリステア様が震える声で、絞り出すように言った。
「……ヴィオレット。愛さなくていいと言ったのは……嘘だ。本当は、お前がどんな人間か知りたかっただけなんだ。あんな酷いことを言えば、お前が感情を露わにしてくれると思ったんだ。だが、お前は消えてしまった。私の前から、世界から……。お願いだ、どこにいるんだ? 私を……一人にしないでくれ……」
なんと。
氷の公爵の正体は、とんでもなくこじらせた「かまってちゃん」だったらしい。
私は溜息を飲み込んだ。
これは、シミを引退する時期が来たのかもしれない。
私は意を決して、精神のステルススイッチをオフにした。
そして、彼の目の前——といっても、彼は床を向いているので、その鼻先の空間に、ゆっくりと実体化するように足を進めた。
「……お呼びでしょうか、閣下」
アリステア様が、弾かれたように顔を上げた。
乱れた前髪の隙間から覗く、血走った紺碧の瞳。その目に映っていたのは、間違いなく『壁のシミ』としてのステルスを解き、実体化した私の姿だった。
彼は幽霊でも見るかのような顔で私を凝視し、おずおずと震える右手を伸ばしてきた。
その大きな手が、私の頬に触れる。冷え切った指先から、彼の異常なまでの動揺が伝わってきた。
「あ、あたたかい……。幻覚じゃない。本物の、ヴィオレットだ……」
「ええ。シミも物理的な実体を伴っておりますので、温度はございます。ご安心を」
「ちがう! なんでお前はそんなにシミであることに誇りを持っているんだ!」
アリステア様は叫ぶなり、私の腰にすがりつくようにして強く抱きしめてきた。
床に膝をついた大柄な男が、小柄な私の腰に顔を埋めてブルブルと震えている。まるで雷に怯えて飼い主にしがみつく大型犬だ。「氷の公爵」の威厳など、もはや微塵も残っていない。
「ごめん、ごめん……! 私が悪かった。あんなこと、本心じゃないんだ……! お前が本当に消えてしまったのかと思って、この数日、生きた心地がしなかった……」
「本心ではない、とは?」
「あ、愛していないなんて、全部嘘だ……。本当は……っ」
彼は顔を上げ、すがるような目で私を見上げた。
「本当は、お前の肖像画を見た時から、ずっと……お前を愛していたんだ」
「…………はい?」
思いもよらない言葉に、私はシミ化以来初めて、素で固まってしまった。
*****
場所は変わり、公爵邸の豪奢な応接室。
深夜だというのに暖炉にはパチパチと火が入り、私はふかふかのソファに座らされていた。
そして私の対面——ではなく、なぜか私の足元の絨毯の上に、アリステア様が正座している。
「あの、閣下。ソファにお座りになっては?」
「いや、私にはこの場所がふさわしい。私のような愚か者は、君を見上げる位置にいなければならない」
「はあ」
すっかりしおれてしまった公爵様は、ぽつりぽつりと事の真相を語り始めた。
彼曰く、私の実家である伯爵家から送られてきた一枚の肖像画を見た瞬間、彼は雷に打たれたような衝撃を受けたらしい。
『なんて静謐で、控えめで、美しい人なんだ。まるで月明かりに咲く一輪の花のようだ』と。
——ただ単に、絵師が私の存在感のなさを表現しきれず、全体的に薄暗くぼんやりと描いただけなのだが、彼の目にはそれが「神秘的」に映ったらしい。
「だが、私は女性とまともに接した経験がなかった。公爵という立場上、寄ってくるのは金や権力目当ての者ばかりで、どう接していいか分からなかったんだ」
「なるほど。それで、あの初夜の暴言に繋がるわけですか。どういう理屈で?」
私が冷静にツッコミを入れると、アリステア様は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……側近の、ライルに相談したんだ。どうすれば、新妻に舐められず、かつ、気を惹くことができるかと」
「側近殿が、あのアドバイスを?」
「あいつは言った。『閣下、女というものは、冷たくされると逆に追いかけたくなる生き物です。最初は氷のように冷たく突き放し、絶望させたところで、ふと優しさを見せる。これこそが巷のロマンス小説で大流行している【ツンデレギャップ萌え】の極意です』……と」
「…………」
私は、明日の朝一番でその側近殿のデスクのインク壺に、こっそり塩を混ぜておく(シミの得意技である)ことを心に誓った。
「私はその言葉を真に受けてしまった。お前を冷たく突き放せば、お前は泣きながら『なぜですか、旦那様!』と私にすがりついてくるはずだった。そうしたら、私は優しくお前を抱きしめ、『……お前がそこまで言うなら、愛してやらんこともない』と言うつもりだったんだ……!」
アリステア様は両手で顔を覆い、「あああ……」と情けない声を漏らした。
「だが、お前は泣くどころか、完璧に私の視界から消え去った! 私が望んだ『ツン』の期間は、お前の圧倒的なステルス能力によって完全に遮断され、『デレ』を発動する機会すら与えられなかった……! どこを探してもいない! なのに、私の身の回りの世話だけは完璧にこなされている! 私は、自分の不用意な発言のせいで、最愛の妻を『概念』にしてしまったのかと、毎夜恐怖に震えていたんだ!」
なるほど、すべてが繋がった。
不器用な男の勘違いと、私の「存在感を消す生存戦略」が、最悪の化学反応を起こした結果がこれだ。
「つまり、閣下は私を愛しており、視界から消えてほしくない、と。そういうことですね?」
「あ、ああ! もちろんだ! 頼む、ヴィオレット。もう二度と『壁のシミ』になんてならないでくれ。私の隣で、私と一緒に生きてほしい。いや、私にお前を溺愛させてくれ!」
「溺愛、ですか」
「そうだ! お前のその地味なドレスもすべて燃やそう! 明日、王都で一番の仕立屋を呼ぶ。宝石商もだ。お前を、誰の目にも留まる、世界一輝く公爵夫人にしてみせる!」
彼の熱烈な宣言に、私は少しだけ眉をひそめた。
「閣下、お気持ちはありがたいのですが……」
「なんだ? 何でも言ってくれ!」
「私、目立つのは苦手なのです。誰かの視線を集めるよりも、部屋の隅で静かにしている方が性に合っています。それに、この『気配遮断スキル』は、長年の鍛錬の賜物です。そう簡単に捨てられるものではありません」
「なっ……! そ、そんな……! じゃあ、君はまた消えてしまうのか!?」
パニックを起こしかける彼を、私は手で制した。
「いえ、消えません。ただし、条件があります」
「条件?」
「はい。一つ、私に無理に着飾らせないこと。二つ、私が静かに過ごしたい時は、無理に構わず放っておくこと。三つ……」
「三つ?」
「私を『壁のシミ』と呼ばず、『ヴィオレット』と名前で呼んで、大切に扱ってくださること」
私が少しだけ口角を上げてそう言うと、アリステア様は大きく息を呑み、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
「ヴィオレット……! ああ、ヴィオレット! もちろんだとも! 君の望みはすべて叶えよう!」
「ちょっと、閣下! 泣きながらすがりつくのはやめてください。私のドレスが濡れてしまいます」
「構わない! 新しいドレスを百着買ってやる! だから、今だけはこうさせてくれ……!」
床に座り込んだまま私の腰に抱きつき、ワンワンと泣きじゃくる冷徹公爵(元)。
その頭を不器用に撫でながら、私は「これからは、シミとしてではなく、この面倒な大型犬の飼い主として生きていくことになりそうだ」と、小さくため息をついた。
*****
翌日から、公爵邸の空気は一変した。
朝、私が目を覚ますと、隣にはアリステア様が寝ている。
これは夫婦として当然といえば当然なのだが、問題はその密着度だ。私の腕をしっかりと抱き込み、まるで大事なぬいぐるみを抱える子供のように離さない。
「ん……ヴィオレット……。どこにも行かないでくれ……」
「行きませんよ。息が苦しいので、少し腕を緩めていただけますか」
「だめだ。少しでも油断すると、君はすぐ『風景の一部』に同化しようとするからな。私はもう二度と、あんな思いはしたくないんだ」
アリステア様は寝ぼけ眼のまま、私の額にチュッとキスを落とした。
初夜のあの冷酷な態度はどこへやら、今の彼は完全に「極度の分離不安症を患ったスパダリ」と化していた。
朝食の席でも、彼は私を自分の隣に座らせる。(対面だと遠くて不安らしい)。
私がパンを一口かじるたびに「美味しいか?」「おかわりはあるぞ」「口元にジャムがついている、私が拭こう」と、甲斐甲斐しく世話を焼いてくる。
「閣下、私は子供ではありません。自分でできますから」
「だめだ。君はちょっと目を離すと、すぐ気配を消してメイドの仕事を手伝おうとするじゃないか。昨日も、私が書類を読んでいる隙に、いつの間にか窓拭きを始めていたろう!」
「あれは、窓ガラスの汚れが気になったので……」
「公爵夫人が自ら窓を拭くなど言語道断だ! 君はただ、私の視界のど真ん中で、堂々と笑っていればいいんだ!」
その「堂々と笑う」というのが私には一番難しいのだが。
彼は私が気配を消せないように、あの手この手で対策を講じてきた。
まずは衣装だ。私の要望を半分だけ受け入れ、「派手すぎないが、絶対に背景には溶け込まない上質なドレス」を大量に仕立てた。淡いピンクや水色、そして彼の瞳と同じ紺碧色のドレス。さらに、歩くたびに微かに澄んだ音が鳴る、魔法石のついたアンクレットまで私の足首に着けられた。
「これで、君がどこに移動しても、足音が聞こえる」
「……まるで、猫に鈴をつけるような真似ですね」
「君は猫以上に神出鬼没だからな」
使用人たちも、この劇的な変化に最初は戸惑っていた。
しかし、誰もいない虚空に向かって怯えていた公爵様が、今では私にデレデレになり、屋敷中が温かい雰囲気に包まれているのを見て、全員が安堵の息を撫で下ろしている。
*****
そんな穏やか(かつ過保護)な日々が続いて一ヶ月。
私たちのもとに、王家主催の夜会への招待状が届いた。
「夜会、ですか」
私は招待状を見つめながら、ひっそりとため息をついた。
実家にいた頃から、華やかな場所は苦手だった。私が参加しても壁際に同化するだけだし、継母たちからは「みすぼらしいから視界に入るな」と疎まれていたからだ。
「行きたくないか? ヴィオレット」
アリステア様が心配そうに覗き込んでくる。
「……少し、気が重いのは事実です。私のような地味な女が公爵夫人として出向いても、閣下の隣では見劣りするでしょうし」
「何を馬鹿なことを!」
彼がバンッと机を叩いたので、私は少し肩を揺らした。
「君は世界で一番美しい! 誰が何と言おうと、私の自慢の妻だ。それに……」
アリステア様は急に声を潜め、私の手を取った。
「社交界では、私が君を冷遇しているという噂が立っているらしい。初夜の一件がどこからか漏れたのか、『氷の公爵は妻を愛していない』と。私は、そのふざけた噂を全力で叩き潰したいんだ」
ああ、なるほど。
彼の名誉のためにも、ここは妻として協力すべきだろう。
「分かりました。壁のシミの意地にかけて、完璧な公爵夫人を演じてみせましょう」
「いや、シミの意地は捨ててくれ」
こうして、私は初めて公爵夫人として社交界の表舞台に立つことになったのである。
王城の輝かしい大広間は、色とりどりのドレスと宝石を身にまとった貴族たちで埋め尽くされていた。
豪奢なシャンデリアの光が降り注ぐ中、会場の扉が開かれ、私たち夫婦が足を踏み入れた瞬間——広間が水を打ったように静まり返った。
「あれが、氷の公爵閣下と……新しい奥方?」
「なんと美しい……。地味な伯爵家の令嬢だと聞いていたのに」
ざわめきが波のように広がっていく。
今日の私は、アリステア様の瞳と同じ、深い紺碧色のドレスを身にまとっていた。上質な絹が歩くたびに波打ち、散りばめられた小さなダイヤモンドが星空のように瞬いている。足元には例の「鈴代わり」のアンクレットがチリンと澄んだ音を立てていた。
だが、人々の視線を集めている最大の理由は、私のドレスではない。
私の腰にがっちりと腕を回し、片時も離れようとしないアリステア様の異常なまでの密着ぶりだ。
「閣下……皆様が見ております。もう少し離れていただけませんか?」
「嫌だ。少しでも隙を見せれば、君はすぐに柱の影やカーテンの裏に同化しようとするだろう」
「しませんよ。今日の私は公爵夫人としての責務を果たすと約束したではありませんか」
「それでもだ。君があまりにも美しいから、他の虫けらどもが寄り付かないように私が結界を張っているんだ」
彼は真顔でそんなことを言い放ち、私をさらに強く引き寄せた。
氷の公爵と呼ばれる男が、妻にデレデレに甘え、周囲を威嚇するように睨みつけている。その異様なギャップに、貴族たちは戸惑い、誰も私たちに話しかけようとはしなかった。
好都合だ。このまま彼にくっついていれば、適当に時間を潰して帰れる。
そう思っていた矢先だった。
「——あらあら! どこの誰かと思えば、ヴィオレットではありませんか!」
甲高く、耳障りな声が響いた。
振り返ると、そこにはけばけばしい赤いドレスを着た義母と、同じように派手な義姉たちの姿があった。実家のヴィルヌーブ伯爵家の人々だ。
「お久しぶりです、お義母様、お義姉様」
私は淡々と頭を下げた。
「まあまあ、公爵夫人になったというのに、その陰気な態度は相変わらずなのね。本当に家名の恥だわ」
「お母様、ご覧になって。ドレスだけは立派だけれど、公爵様は一言も発しておられないわ。きっと、無理やり着飾らせて連れてこられたのね。可哀想に」
「『お前を愛することはない』と言われたという噂、本当だったのねえ」
扇で口元を隠しながら、クスクスと下品に笑う三人。
彼女たちは、アリステア様が「氷の公爵」の仮面を被って無表情で立っているのを、「妻を疎んじている」と勘違いしているらしい。
私が実家にいた頃の日常風景だ。
何を言われても無視し、存在感を消す。それが私のやり方だった。
私はスッと息を吸い込み、精神のスイッチを切り替えた。よし、ここで「壁のシミ」スキルを発動し、彼女たちの嫌味をすべて物理的にスルーして——。
「——誰の許可を得て、私の妻を愚弄している?」
空気が、凍りついた。
いや、比喩ではない。本当に広間の温度が数度下がったかのような錯覚に陥った。
アリステア様から放たれる、絶対零度の殺気。それは、私に向けられた「かまってちゃん」の態度とはまるで違う、本物の「氷の公爵」の覇気だった。
「ひっ……!」
義母たちが息を呑み、後ずさる。
「私の妻が陰気だと? 家名の恥だと? 貴様らのような下劣な輩の目が節穴なだけだろう。ヴィオレットは私の光であり、この世で最も尊い存在だ。それを侮辱することは、私——クロムウェル公爵家に対する宣戦布告と受け取って相違ないな?」
「か、閣下! 誤解でございます! 私共はただ、身の程知らずな娘を窘めようと……!」
「黙れ」
低く、冷酷な一言が、義母の弁明を切り捨てた。
「お前たちがこの美しく心優しい妻を不遇に扱っていたことは、調査済みだ。本来なら屋敷ごと叩き潰してやるところだが、ヴィオレットが悲しむかと思って生かしておいた。だが、もう容赦はしない。ヴィルヌーブ伯爵家への融資はすべて引き上げる。明日には路頭に迷う準備をしておくんだな」
「そ、そんな……! お助けください!」
泣き崩れる義母たちを一瞥もせず、アリステア様は私の手を取り、その甲にうやうやしく口付けた。
「行こうか、ヴィオレット。こんな塵芥のいる場所は、君にはふさわしくない。庭園の夜風に当たりに行こう」
彼はそのまま、広間中の貴族たちが呆然と見守る中、私をエスコートしてテラスへと歩き出した。
背後で、義母たちの絶望に満ちた叫び声が聞こえたが、彼にはもはや雑音としか認識されていないようだった。
*****
夜の王城の庭園は、静寂に包まれていた。
月明かりが、美しく手入れされた薔薇のアーチを照らしている。
テラスのベンチに座った私を、アリステア様は心配そうに覗き込んだ。
「すまない、ヴィオレット。君の実家とはいえ、あんな連中に君を侮辱させるわけにはいかなかった。やりすぎだっただろうか?」
彼の瞳には、先ほどの冷酷さは欠片もなく、ただ私に嫌われないかという不安だけが揺れていた。
「……いいえ」
私は首を横に振った。
「やりすぎなどではありません。むしろ、あんなにはっきりと庇っていただいたのは、生まれて初めてです。……ありがとうございます、アリステア様」
私が初めて彼を名前で呼ぶと、彼は大きく目を見開き、そして泣き笑いのような表情を浮かべた。
「ああ……。君の口から私の名前が聞けるなんて、夢のようだ」
彼は私の隣に座り、そっと私の肩を抱き寄せた。今度のそれは、子供のようなすがりつく抱擁ではなく、愛する人を守り抜こうとする、男としての優しく力強い抱擁だった。
「ヴィオレット。君はもう、誰の顔色をうかがう必要もない。息を潜めて、気配を消す必要なんてどこにもないんだ。君は私の妻だ。世界中の誰よりも幸せになる権利がある」
彼の低い声が、私の耳元に優しく響く。
長年、私を守ってきた「壁のシミ」という強固な鎧が、彼のもたらす熱によって、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
「……怖いのです」
私はぽつりと、初めて自分の本音をこぼした。
「私はずっと、誰の記憶にも残らないように生きてきました。だから、こんな風に誰かの特別になって、愛されることに……戸惑っています。もし、いつかあなたが私に飽きて、また私を視界から消そうとしたら。その時、私はもう、一人で『シミ』に戻ることはできない気がして……」
感情を殺して生きるのは楽だ。期待しなければ、絶望することもない。
でも、一度この温もりを知ってしまえば、もう二度とあの冷たい壁際に戻ることはできない。それが怖かった。
アリステア様は、私の言葉を聞いて、少しだけ悲しそうに目を細めた。そして、私の両頬を両手で包み込み、真っ直ぐに私の灰色の瞳を見つめ返した。
「飽きるはずがないだろう。私は、君のすべてを愛している。君が壁のシミになろうとするその不器用なところも、私のためにこっそり世話を焼いてくれる優しいところも。それに……」
彼はふっと笑い、私の唇に軽くキスを落とした。
「君のその圧倒的なステルス能力を暴けるのは、世界で私だけだ。君がどこに隠れようと、何度でも見つけ出して、抱きしめてやる。だから、安心して私の隣にいてくれ」
その言葉には、一片の嘘も迷いもなかった。
私はゆっくりと息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「……分かりました。では、これからは『壁のシミ』としてのスキルは封印します。その代わり、閣下が少しでも私を蔑ろにしたら、即座に屋敷の壁に同化して、二度と姿を見せませんからね」
「肝に銘じておくよ。私の命に代えても、君を離しはしない」
アリステア様はそう誓うと、再び深く、今度は甘く溶けるような口付けを私に落とした。
庭園の隅で、二つの影が一つに重なる。
もう、そこに「気配を消した令嬢」の姿はない。ただ、愛する夫の腕の中で幸せに身を委ねる、一人の女性がいるだけだった。
*****
それから数年後。
クロムウェル公爵邸は、かつての「氷の公爵が住む冷たい屋敷」という悪評が嘘のように、温かく明るい笑い声に包まれていた。
「ヴィオレット! 見てくれ、この書類の束を! 君が淹れてくれた紅茶のおかげで、三日分の仕事を半日で終わらせたぞ!」
「お疲れ様です、アリステア様。でも、あまり無理はなさらないでくださいね」
執務室のソファで編み物をしている私の元へ、夫が尻尾を振る大型犬のような勢いで駆け寄ってくる。
私は彼のために淹れた新しい紅茶をテーブルに置き、その頭を優しく撫でてやった。
「うむ。君に撫でられるのが、私にとって何よりの報酬だ」
アリステア様は気持ちよさそうに目を細め、私の膝に頭を擦り寄せてくる。
相変わらずの溺愛ぶり、いや、過保護ぶりは健在で、私が少しでも屋敷の外に出ようものなら、護衛という名の監視役(というより彼自身)が必ずついてくる有様だ。
ちなみに、実家のヴィルヌーブ伯爵家は、あの夜会の後、宣言通りアリステア様によって徹底的に経済的制裁を受け、あっという間に没落した。義母たちは今頃、平民に混じって泥水のようなスープをすする生活を送っていることだろう。少しも同情は湧かない。
「そういえば、ヴィオレット」
「はい?」
「最近、また君の気配が薄くなっている気がするんだが……気のせいか?」
アリステア様が、少し不安そうな顔で私を見上げた。
私はクスッと笑い、編みかけの小さな小さな靴下を彼に見せた。
「気のせいではありませんよ。なにせ、私の魔力と気配が、もう一つに分かれようとしていますから」
「……え?」
「ですから。もうすぐ、この屋敷にもう一人、小さな家族が増えるということです」
私の言葉の意味を理解するのに、冷徹公爵(元)の優秀な頭脳は数秒の時間を要した。
そして。
「——ほ、本当か!? ヴィオレット!!」
「ええ。先日、医師に診てもらいました」
「おおおおお!! やった! 私たちの子供だ!!」
アリステア様は歓喜のあまり私を抱き上げようとしたが、「あっ、いかん、安静にしなければ!」と慌てて私をソファに座らせ直し、オロオロと周囲を歩き回り始めた。
「ど、どうしよう! 部屋の角はすべて丸く削らせよう! 階段にはふかふかの絨毯を敷き詰めて……いや、君を歩かせるわけにはいかない! 私が一日中抱っこして移動しよう!」
「アリステア様、落ち着いてください。まだ数ヶ月先の話ですよ」
呆れながらも、私の口元からは自然と笑みがこぼれていた。
かつて、「愛することはない」と拒絶された初夜。
あの時、壁のシミとして生きようとした私は、まさかこんな未来が待っているとは夢にも思わなかった。
「愛してるよ、ヴィオレット。君も、生まれてくる子供も。私のすべてをかけて守り抜く」
「ええ、知っています。私も愛していますよ、あなた」
窓から差し込む柔らかな日差しの中、私たちは静かに額を寄せ合った。
もはや私が壁と同化する必要は、どこにもない。
私は今、この世界で一番目立って、一番愛されている、最高に幸せな公爵夫人なのだから。




