第88話 土曜日・閉店後:静かに近づく“玲子”への一歩
最後の客を見送り、扉の鍵を下ろした瞬間、
店内はまるで別の空間になったように静けさを取り戻した。
カウンターに残るのは──美月と豊だけ。
「ふぅ……今日もよく働いたね」
豊が照明を一段だけ落とす。
店内は、温かいブラウンの灯に包まれた。
「うん。今日はなんか人が多かったね」
美月が笑うと、豊はしばらく黙り込む。
気づけば、美月の手元の布が止まっていた。
「……お父さん?」
「ん?」
「なんか……話したいこと、ある?」
その一言に、豊はほんの少しだけ目を伏せた。
「……美月」
「うん」
「……お前、来週……少し時間、作れるか?」
「え……どういうこと?」
豊の声には、いつもの冗談めいた軽さはなく、
どこか慎重で、少しだけ迷いを含んでいた。
美月の胸が静かにざわつく。
「その……“母さんの話”だ」
美月は、ごくりと喉を鳴らした。
豊から自分の母の話題が出ることは、
決して珍しくないはずなのに──
今日はどこか違う気がした。
「……うん。聞きたい。ちゃんと」
豊が小さく笑う。
「焦るなよ。今日は……ここまでだ」
そう言って視線をそらした瞬間──
カラン、と控えめにドアが鳴った。
「……航平さん?」
美月が振り返ると、
夜風を背に、航平が立っていた。
「お疲れ。迎えに来た」
その声に、美月の胸はふわりと温まる。
豊がため息をつき、
カウンター奥から封筒を一つ取り出した。
「……航平。ちょっと来い」
「え?」
一瞬美月が驚くが、
豊は「いいから」と手で制した。
航平はカウンターに入り、豊のそばに立つ。
豊は封筒を航平の手に押し込んだ。
「来週まで──美月には黙っててくれ」
静かだが、芯のある声。
「……これは?」
「芦屋からの“招待状”だ。二枚な」
航平は息をのみ、封筒を見つめる。
「……個展、ですか」
「ああ。……来週だ」
豊の横顔は、どこか覚悟を決めたような表情に変わっていた。
「俺の準備が整うまで、預かっててほしい」
「……分かりました、豊さん」
「美月には……来週、俺の口から話す」
航平は封筒を大事そうに胸ポケットへしまい、
深くうなずいた。
美月は遠くから二人のやりとりを見つめ、
何かが動き出している気配だけを感じていた。
「何話してるの?」
美月が近づくと、
豊はいつも通りの顔に戻っていた。
「ん? ちょっとな。……内緒話だ」
「ええ〜、ずるい」
「教える時が来たら教える。今は我慢しろ」
その言葉に、美月は不思議そうに瞬きをする。
美月が店の準備を終え、航平の隣に立つ。
「帰ろうか、美月」
「うん」
手をつなぎ、扉の外へ出て行く二人を見送りながら、
豊は静かに息を吐いた。
(……来週か)
胸の奥で、
長く閉じたままだった扉の向こうが
静かに光り始めていた。




