第87話 土曜日の午後:動き出す“来週”
店内の空気が、ふっと変わった。
振り返った美月は、一瞬呼吸を忘れた。
「こんにちは、豊さん。そして……久しぶりね、美月ちゃん」
落ち着いた声。
けれど、どこか懐かしい温度を含んでいる。
(……友梨さん)
母とそっくりな横顔。
けれど玲子より、少しだけ強く、凛とした雰囲気。
豊は、ほんの一瞬だけ動揺したように見えた。
「……どうした、友梨」
その声は低い。
だが、目の奥で何かが揺れている。
友梨は静かに店内を見渡し、そして豊に向き直る。
「来週の土曜日。……描き上がるから」
美月に告げたかのような柔らかい言い方で。
だが、その言葉の矛先は明らかに豊だった。
その耳には——
ブルーの光を帯びたピアスが輝いている。
(……お母さんが買った、あのピアス)
美月は胸がきゅっと熱くなった。
友梨の顔には迷いは、まったくなかった。
決めた人の、研ぎ澄まされた光があった。
豊はわずかにまぶたを伏せ、短く息を吐く。
「……そうか」
まるで腹の底で何かを決めたような表情だった。
「分かった。……必ず行く」
友梨の口元に、ほっとしたような、誇らしいような笑みが浮かぶ。
「ありがとう、豊さん」
そして、ふっと美月の方へ向き直った。
「美月ちゃん。今度、ゆっくり一緒にごはんしましょうね」
優しい声。
どこか母に似た、あたたかい言葉。
「……はい、ぜひ」
美月が笑うと、友梨は満足そうにうなずいた。
「よかった。また近いうちに」
店を出る時、ピアスが小さく揺れた。
その揺れは、玲子の面影のように見えた。
扉が閉まると同時に、豊は深く息を吐いた。
(……来週、すべてが動き出す)
その背中には、覚悟の色が宿っていた。




