第86話 土曜日・午後 「お父さん、これって……」
昼の仕込みがひと段落した頃。
カウンターの中で玉ねぎを刻んでいる豊に、美月はそっと声をかけた。
「ねぇ、お父さん……朝の、航平さんの話なんだけど」
包丁を動かしたまま、豊が「あぁ」とだけ返す。
(……言うの、ちょっと恥ずかしいけど)
「その……“毎日一緒にいたい”って……言われて…………」
言葉にするだけで、頬が熱くなる。
「……で?」
豊の短い声。
促されて、美月は勇気を振り絞った。
「お父さん……これって……その……
同棲、って……こと、だよね?」
途端に豊の手が止まった。
玉ねぎの上で、包丁がピタリと静止する。
「……さぁな」
返ってきたのは、そっけなさすぎる一言。
「え……?」
「俺が決めることじゃねぇだろ。
お前が本人に聞きゃいい話じゃねぇか」
思いのほか“突き放すような声音”に、美月は目を瞬いた。
(な、なにこれ……?
なんか……トゲがある……)
不安と戸惑いが一気に胸に広がる。
「お、お父さん……怒ってるの?」
「怒っちゃいねぇよ」
言葉とは裏腹に、声はどこか硬い。
(……何か……変だ)
美月が言葉を探そうとした、その瞬間。
──カラン。
ドアベルの音に、美月は反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、
母・玲子に驚くほどよく似た女性だった。
(……だれ……? え……嘘……)
美月の胸がざわめく。
豊は、ほんの一瞬だけ息を呑み、そして低く名前を呼んだ。
「……友梨」
その名前を聞いた瞬間、
美月の中で記憶がゆっくりと結びつく。
(友梨……お母さんのお姉ちゃん……叔母さん……)
女性──友梨は、穏やかな微笑みを浮かべた。
そして、やわらかい声で言う。
「こんにちは、豊さん。
そして……久しぶりね、美月ちゃん」




