第84話 金曜日の夜:誘われた瞬間、胸が跳ねた(美月サイド)
金曜日の夜。
閉店前の「Bar Toyo」には、ゆったりした音楽と、心地よいアルコールの香りだけが残っていた。
「……じゃあ、そろそろ閉めるか」
豊がカウンターを拭きながらつぶやく。
その横で、グラスを片付けていた美月の心臓は、今日はいつもよりずっと落ち着かなかった。
(……今日、航平さん来てる)
カウンターの端。
来ると分かっていても、目が合うだけで胸が熱くなる。
航平は雑誌を閉じ、静かにこちらを見た。
その眼差しがやわらかくて、恋人の顔になっていて──
視線だけで足元がふわっと浮く。
「美月」
名前を呼ばれただけで、どきん、と胸が跳ねた。
「ん……?」
片付けを続けながら返事をすると、航平は少しためらったような表情をして、でも意を決したように視線を上げた。
「……今日、うち来ない?」
「──っ!」
手が止まった。
グラスの音がカウンターで小さく鳴る。
(……今、なんて……?)
顔が一瞬で熱くなり、胸が早鐘のように鳴る。
「無理しなくていいけど……その……」
航平は普段より少し低い声で続ける。
「美月と……一緒に、いたい」
その一言が、身体の奥までじんわり響いた。
優しいのに、どこか切なくて、真っ直ぐで。
(ずるい……そんな言い方……)
恥ずかしいのに、嬉しくてたまらない。
「……行く……」
気づけば、唇が勝手に動いていた。
「……え?」
「行きたい。航平さんの家……」
言った瞬間、航平の表情がぱっと明るくなった。
「……ありがとう」
その声が好きすぎて、胸の奥がきゅっとなる。
閉店後。
店の灯りを落とし、シャッターを閉める。
「おい、美月」
豊がふいに声をかけてきた。
「……来週の仕込み、忘れんなよ」
「うん」
その返事に、豊が意味ありげに目を細めた。
けれど、美月は気づかないふりをした。
だって今は──
すぐ横にいる航平の存在だけで、胸がいっぱいだったから。
店を出た帰り道。
夜風が頬をひやりと撫でる。
歩幅を合わせてくれる航平の横顔が、街灯に照らされてやわらかく光る。
「美月」
「ん……?」
歩きながら手を伸ばされる。
(え……)
指先が触れた瞬間、心臓が跳ねた。
「……繋いでいい?」
「……うん」
つないだ手はあたたかくて、
指先が絡むたび恋が溶けていくみたいだった。
「今日……来てくれて嬉しい」
「私も……行きたいって思ってた」
言うと、航平が少しだけ歩くスピードを落とした。
そして、すぐ左で。
唇に触れるより近い距離で、
航平がゆっくり、美月の手を握り直す。
「……今夜、ちゃんと迎えたいから」
(なに……その言い方……)
足がふわっと浮きそうなほど、胸が甘くなる。
金曜日の夜の街は静かで、
美月と航平の歩く音だけが響いていた。
これまでの“金曜日”とは違う。
恋人として迎える、初めての金曜日。
振り返れば、恋のはじまりはここからだった。
でも今日は──
(……ここから、もっと先に進むんだ)
航平の家へ向かう道のりは、
それだけで胸の奥が高鳴り続けた。




