第83話 金曜日前夜:胸の奥に落ちた一つの名前(美月サイド)
木曜日の閉店後。
店の灯りをすべて落として、豊が裏の棚を整理していた。
「……お父さん、今日は早く帰るの?」
「まあな。ちょっと探し物だ」
美月はカウンターを拭きながら、ぼんやりと明日のことを考えていた。
(金曜日……航平さん、来るよね)
そのだけで胸が温かくなった瞬間──
パサッ。
裏の棚の奥から、何かが落ちる音がした。
「っと……なんだこれ」
豊が拾い上げたのは、
白い厚紙の封筒だった。
きれいな封筒。
誰かの筆跡で書かれた文字。
豊が一瞬、手を止めた。
(……なんだろう、あの封筒)
気になって近づくと、
豊は咄嗟にそれを胸の前へ隠すように持った。
「お、おい。これは……しまっておくやつだ」
妙に慌てた声。
父のそういう態度を、私はほとんど見たことがない。
「なに、それ……?」
「たいしたもんじゃない」
即答。
でも、声の端にわずかな震え。
(……嘘だ。何かある)
カウンターの上に戻りながら、
美月は父の手元を見つめていた。
豊は封筒を棚の引き出しにしまい、鍵までかけた。
(鍵まで……?)
胸の奥で小さく引っかかりが生まれる。
「……ねぇ、お父さん」
「ん?」
「さっきの封筒、誰から?」
豊はほんの一瞬だけ、返事を止めた。
その間が、妙に長く感じた。
「……芦屋だ」
「……え?」
思わず聞き返した。
「だ……誰……?」
芦屋──
聞き覚えはない。
でもどこかで
最近心に影を落とした“誰か”を思い出す。
(……この前の金曜日に来た、あの人?)
胸がざわつく。
「芦屋って……あの時、店に来た人?」
豊は目を合わせず、静かに頷いた。
「そうだ。昔の知り合いだ」
それだけを言い、
それ以上は語ろうとしなかった。
だけど──
気づいてしまった。
(お父さん……この話、したくないんだ)
いつもなら何でも話してくれるのに。
その豊が沈黙でふたをしたのは初めて。
私は何も言えず、ただ見つめるだけだった。
引き出しにしまわれた封筒。
芦屋という名前。
そして、謎めいた父の沈黙。
(なに……隠してるの?)
金曜日前夜の夜は、
静かに、でも確実に胸の奥をざわつかせた。
恋の前夜なのに──
胸に落ちたのは、知らない男の名前だった。




