第82話 Monday & Tuesday:静かに動き始めるもの
月曜日の夜。
「Bar Toyo」はいつもより静かだった。
カウンターの奥でグラスを磨く豊の耳に、
美月と航平の穏やかな声が微かに届く。
二人は仕事終わりに軽く話しただけで、
恋人らしい甘さは見せない。
——客と従業員。
——豊の娘と、その恋人。
その境界線をちゃんと守ろうとしている。
その距離が、豊には少し可笑しく、少し誇らしく見えた。
(……これから先、どうなるかは分からんが)
ふと、豊の指が止まる。
カウンターの端に置かれた、
“二枚の招待状”。
芦屋健司が昨日持ってきたものだ。
『玲子の絵を描いている。
完成したら——観にきてほしい』
その声がまだ耳に残っている。
ただの個展の招待状なのに、
そこには“過去の気配”が滲んでいた。
(……本当に描けるのか? 健司)
玲子が亡くなって十三年。
芦屋はずっと描けずにいた。
しかし——今回は違う。
あの目は覚悟を帯びていた。
火曜日の朝。
豊は店の扉を開けながら空を見上げる。
昨夜の冷たい風がまだ残っていて、
灰色の雲が低く垂れ込めていた。
(こいつは……雨になるな)
そんな天気と同じように、
胸の奥にわずかなざわつきがあった。
その時、
スマホの通知が震えた。
芦屋からの短いメッセージ——
『個展の準備、進んでいるよ。
——玲子さんに、助けられている気がする』
その文字を見た瞬間、
豊の肩が僅かに揺れた。
(……やっぱり、描いているんだな)
少しの安堵と、
少しの不安が混じる。
玲子の絵が完成する。
そして美月がそれを見る。
その未来が、
どんな意味を持つのか——
豊にさえまだ分からない。
火曜日の夜。
バーはいつものペースで賑わい、
航平も仕事終わりに顔を出した。
「こんばんは」
「おう、来たな」
いつもより少し固い豊の声。
航平がそれに気づいたかどうかは分からない。
ただ、航平は美月の笑顔を見た瞬間、
その違和感を忘れたように柔らかく笑った。
(……若いなぁ、こいつ)
豊は心の中で小さく笑った。
同時に——
胸の奥で別の何かがそっと動く。
(玲子……
お前の残したもんが、まだ俺たちを動かしてる)
芦屋の個展。
玲子の絵。
そして、美月。
すべてが静かに、
しかし確実に“ある一点”へ向かい始めていた。
閉店間際。
美月がカウンターから離れ、片付けをしている間に、
豊はポケットから招待状をひとつ取り出した。
淡いクリーム色の紙に、
金のインクで印刷された文字。
『KENJI ASHIYA EXHIBITION
——Reborn』
(再生……か)
芦屋の意図を考えると、
そのタイトルの意味は深すぎる。
そして
——美月がこの展示を見る意味も。
豊は息を長く吐き、
そっと招待状をしまった。
(美月には……もう少し後で、だな)
まだ早い。
まだ、その時じゃない。
だが——その時は確実に来る。
そう確信しながら、
豊は静かに店の灯りを落とした。




