第81話 月曜日の夜:恋人と客、その境界線(Bar Toyo)
月曜の夜の「Bar Toyo」は、週の始まりにしては静かだった。
雨は上がり、店の窓には街灯の光が淡く揺れている。
カウンターの中で豊がグラスを磨きながらふと考え込む。
土曜日の個展、日曜日の墓参り──
彼の心は、あの日々と、あの人々の顔で静かにざわついていた。
(……今日くらいは、普通の夜であってくれよ)
そう願った時。
──カラン。
ドアベルが鳴き、美月が入ってきた。
「お疲れ様、お父さん。今日の仕込み、終わらせたよ」
恋をしていても変わらない、仕事の顔。
豊はその健気さに、心の奥が少しだけ柔らかくなる。
「ああ。……今日は、あいつも来るんだろ」
「えっ……?」
美月の頬が薄く赤くなる。
「……来る、と思う」
その答えに、豊は苦笑した。
“来ると思う”なんて言いながら、声の温度が完全に確信している。
まもなく。
──カラン。
「こんばんは」
航平が、いつもより落ち着いた表情で店に入ってきた。
美月の顔が自然とほころぶ。
その瞬間、店の空気がほんのり甘くなる。
「美月。……来てたんだ」
「うん。今日は早めに来たの」
2人だけの空気がさりげなく生まれ始める。
だが──その空気を、豊がスッと断ち切った。
「おい。店では“客とスタッフ”だぞ」
「っ……!」
美月が肩を跳ねさせ、航平がわずかに眉を上げる。
「べ、別に……なにも」
美月が慌てて否定すると、豊は淡々と言った。
「恋人であろうと関係ない。店は店。
お前らの“家の続き”をここに持ち込むな」
決して怒っているわけではない。
ただ、美月を守るための“線引き”が、そこには確かにあった。
航平は静かに頷いた。
「……はい。分かっています。豊さん」
いつもの柔らかい声ではなく、きちんとした大人の声。
その声に、美月はほんの少し誇らしくなった。
(航平さん……かっこいい)
その横顔を見つめそうになり、慌てて視線を逸らす。
豊は溜息をつきながらも、心の中ではこう思っていた。
(……線引きを守る男じゃなきゃ、任せられねぇよ)
カウンターに座る航平にウイスキーを注ぐ。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。……ただし、色っぽい目で美月を見るのはやめろ」
「は……はい?」
不意打ちに航平がむせる。
美月は「ちょっとお父さん!」と真っ赤になった。
豊はグラスを磨きながらニヤリと笑う。
「仕事中はスタッフだ。……覚えとけ」
航平は照れ笑いしながらも、真面目に頷いた。
「……気をつけます。
でも……美月のこと、見ないのは無理ですが」
「……っ!!」
美月はその場で崩れ落ちそうになる。
豊は額に手を当てた。
(……お前ら、距離感が近すぎんだよ)
それでも、どこか安心していた。
恋人になっても、
“ここでのルール”を守ろうとしている2人がいる。
その事実が、豊の胸の中を穏やかにさせた。
「……よし。今日も店、やるぞ」
「はい!」
「はい、豊さん」
恋人でありながら、
客とスタッフとしての距離を保つ2人の姿。
金曜日は、もう“特別な日”じゃない。
毎日がふたりにとって特別な日になりつつある。
でも、この店のカウンターには
いつも変わらず“守るべき空気”が流れていた。
月曜日の夜は、静かに、温かく更けていく。




