第80話 月曜日・静かな再訪
月曜日の昼下がり。
「Bar Toyo」はまだ閉店中で、
照明も落とされ、店内には仕込みの音だけが響いていた。
豊がカウンターでグラスを磨いていると——
カラン。
閉まっているはずの扉が、静かに開いた。
「……来たぞ」
聞き覚えのある低い声。
振り返ると、芦屋 健司が立っていた。
土曜の個展以来、
二日ぶりの再会だった。
「……鍵、開けてたか?」
「ノックしたら、開いてたよ」
「勝手に入るな」
「豊さんらしいな。その言い方」
芦屋は軽く笑い、
カウンターへ一歩近づいた。
今日はスーツではなく、
深いグレーのコートに黒いタートル。
派手さはないのに、目が離せない存在感があった。
「で、なんだ。個展は終わっただろ」
「始まったばかりだよ」
静かに返しながら、
芦屋は内ポケットから封筒を取り出した。
薄く、上質な紙。
招待状だった。
「……二枚だ」
豊の前に置かれる。
「なんで俺に渡す」
「渡してほしい相手がいるだろ」
豊の手が、ぴたりと止まる。
「美月ちゃんと——“彼”に」
空気が、わずかに動いた。
「……あいつに、絵を見せる気か」
「完成したら、ね」
芦屋の声は静かで、
どこか遠くを見るようだった。
「玲子さんの絵だ」
豊は目を細める。
「まだ描いていたのか」
「描けなかった。ずっと」
短い沈黙。
芦屋は視線を落とし、
言葉を選ぶように続けた。
「でも……やっと描けそうなんだ」
それは、決意にも祈りにも聞こえた。
「完成したら見てもらいたい。
“今”の俺が描いた玲子さんを」
豊は無言のまま封筒を指先で押した。
「……なんで美月と“彼”なんだ」
「理由がいるかい?」
「いるに決まってる」
芦屋はふっと笑った。
「美月ちゃんは——未来だよ」
その声には、
未練ではなく“再生”の気配があった。
「それに、絵ってのはさ。
誰かの今を映すものだ」
目を上げて言う。
「彼女と、彼の“今”を」
豊は鼻で短く笑う。
「……偉そうに言いやがって」
「そういう人間じゃなかったか、俺は」
挑発ではない。
静かな事実として。
数秒の沈黙。
やがて豊が封筒を手に取った。
「……預かるだけだ。渡すかは別だ」
「それでいい」
芦屋は背を向けた。
扉に向かう途中、
ふと思い出したように振り返る。
「豊さんと友梨には——また改めて見せる」
「……ふん」
「その時は、逃げないでくれよ」
軽く手を挙げ、
芦屋は店を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
豊は封筒を見下ろしながら、
ゆっくり息を吐いた。
(……めんどくせぇ奴が動き出したな)
けれど、
その目だけは、
どこか遠い場所を見ていた。
玲子の影と——始まってしまった新しい流れを。




