第76話 土曜日:父と娘の夜、静かなあたたかさ
土曜の夕方。
「Bar Toyo」の扉を開けると、冬の冷たい風とは反対に、店の中はいつもより賑やかな空気に包まれていた。
(なんだろ……今日は人が多い)
美月はカウンターの内側に立ちながら、そっと目で客の流れを追った。
いつもの常連たちが笑い合い、冬限定のホットカクテルがよく出ている。
だけど胸のどこかに空白がある。
(……航平さん、今ごろどこにいるんだろう)
昨夜、帰り道で勇気を出して聞いた。
『明日……どう過ごすの?』
航平は、少し照れたように笑って言った。
『写真撮りに行ってくる。
……ちゃんと帰ってきたら見せるから』
そう言われて嬉しいのに、胸の奥がきゅっとした。
(寂しいとか……言えないよね)
彼の大事な時間を奪いたくない。
その気持ちが強くて、笑顔で頷くしかなかった。
『うん……楽しんできてね。
写真、見せてくれるの楽しみにしてる』
あの時の、自分の胸の痛みに気づかないふりをした。
接客の合間、美月はそっとスマホを確認する。
(……まだ来てないか)
特別な意味じゃなくてもいい。
どこかの景色の写真が一枚でも届けば、それだけで嬉しいのに。
そんな美月の様子を、豊は見逃さなかった。
「……お前なぁ」
「え?」
豊はため息とも笑いともつかない声を漏らしながら、カウンターに肘をついた。
「毎日働きづめで、スマホばっか見て。
そろそろ定休日でも作るか?」
「えっ、なんで急に?」
「なんでもだ。
……少しは休めってことだよ」
美月は小さく首を振って、ふわりと微笑んだ。
「私、この仕事好きだよ。
お父さんと一緒に店をやっていられるのも……大事な時間だから」
その言葉に、豊の手が止まった。
長い沈黙のあと。
ぽつりと落ちるように、静かな声がこぼれた。
「……お前の人生だぞ、美月」
「?」
「自分の時間はな、自分で決めろ。
誰かのために犠牲ばっかりになったら……後でしんどくなる」
心配を隠しきれない声だった。
(お父さん……気づいてるんだ)
美月の胸の奥がじんわり温かくなる。
「大丈夫。
ちゃんと……自分で選んでるよ」
照れくさく言うと、豊はふっと笑った。
「ならいい」
それだけで十分だった。
忙しい夜のピークが過ぎ、店内にはゆったりした空気が流れ始めた。
グラスを磨く音。
ストーブの低い唸り。
客の笑い声が遠くで揺れる。
カウンターの中で、父と娘が並んで立つ時間は、他のどれよりあたたかい。
外は冬の冷たい風が吹いているのに、
店の中は灯りと気持ちでやさしく満たされていた。
(……明日、会えるのかな)
心の奥では静かに、確かに、航平を思っていた。
でも今は。
(この時間も……すごく好きなんだよ、お父さん)
美月はそっと横目で豊を見て微笑んだ。
豊もまた、娘の穏やかな笑顔に気づいて、何も言わずに照明を少しだけ落とした。
土曜日の夜は、いつもよりあたたかく、更けていった。




