第74話 土曜日・個展初日:再会の影(友梨・芦屋・豊)
土曜の午前十一時。
都内の静かなギャラリーの前には、控えめな案内板が立っていた。
《ASHIYA KENJI Exhibition ー 境界線の呼吸 ー》
個展初日。
人が多すぎず、しかし時間が経つごとに静かに客が増えていく。
そんな落ち着いた空間の奥で──
芦屋健司は、ひとり展示の最終チェックをしていた。
黒いシャツにジャケット。
無駄のない所作は、絵画の前に立つとさらに研ぎ澄まされる。
(……来るのか。豊は)
昨夜、バーでの再会。
そしてその後、豊が展示会へ来ると言った時の微妙な間。
あの男が来る。
それだけで胸の奥で小さな波が立つ。
(そして……友梨も)
今日、来る約束になっている。
七年ぶりの再会。
ぎゅっと胸が締まる感覚がした。
午前十一時過ぎ。
展示室の入り口がふわりと開く音がした。
先に現れたのは──豊だった。
「来たぞ」
笑みも驚きもない、一言だけ。
芦屋は、かすかに息を呑んだ。
「……来てくれたんだな」
「来てやっただけだ。礼は要らん」
豊はいつも通り。
だが、瞳の奥にはどこか読めない影が走る。
互いに軽く視線を交わすだけで、
過去の空気が静かに揺れた。
「美月は?」
「今日仕事だ。連れてくる必要もない」
「……そうか」
その言い方に、芦屋は逆らわず頷くだけだった。
美月を巻き込みたくない。
豊のその強い意志が分かるから。
数分後。
静かに足音がした。
軽やかで、しかし迷いのある足取り。
扉がそっと押し開かれ──
現れたのは、友梨だった。
白いコートに淡いベージュのワンピース。
昔より少し痩せて、けれど美しさは変わらない。
芦屋の呼吸が止まった。
(……友梨)
目が合った。
友梨は小さく会釈する。
「……健司さん」
声は穏やかで、どこか懐かしい。
豊が一歩横にズレる。
ふたりの間に、道を作るために。
「久しぶりだな、友梨」
芦屋の声は、思ったより静かだった。
友梨は会場を見渡し、ゆっくり微笑む。
「変わらないのね……あなたの絵」
「変わらないのは……君の方だ」
その言葉に、友梨の肩がわずかに震えた。
豊は二人を見守りながら、静かに息を吐く。
(……ようやく、向き合う時が来たか)
七年前、互いに傷つき、離れ、
それでも未練のように、互いを手放せていなかった二人。
今日、この個展は──
芦屋の再生の始まりであり、
友梨の再生の始まりでもある。
そして豊にとっても、
玲子の影を抱え続けてきた過去と向き合うための一歩だった。
友梨は展示室の奥へゆっくり歩き出す。
白い布がかけられた、ひときわ大きなキャンバス。
芦屋が最後まで完成させられなかった──
玲子の肖像画。
友梨は振り返り、芦屋を見つめる。
「……これ、玲子の?」
「……あぁ」
「まだ……未完成のままなのね」
友梨の声は震えていた。
それは嫉妬ではなく、
喪失と、姉への深い愛情ゆえの痛み。
豊はただ静かに二人の背中を見つめた。
(ここからだ……三人それぞれの答えは)
淡い光の差し込む展示室で、
静かな火花がゆっくりと散っていた。




