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妄想恋愛ばかりしていたら、金曜日に本物がきた。  作者: つなかん


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第73話 金曜日:静かな夜に、あたらしい意味が生まれる

金曜日の夕方。

 「Bar Toyo」のカウンターには、磨き上げたグラスがきれいに並べられていた。


 開店準備をしながら、美月はふと手を止める。


(……金曜日、か)


 少し前までは、

 “妄想の中だけで恋をしていた曜日”。


 今は違う。


(今日は……“会える日”)


 胸の奥が、静かに、でも確かに弾む。


 緊張で息が詰まりそうだった頃とはちがう。

 怖さよりも、嬉しさのほうが大きい。


 それでも——

 扉の方に視線が吸い寄せられてしまうのは、昔と同じだった。



 開店してしばらく。


 カラン、とベルが鳴った。


 心臓が、一段高く跳ねる。


「こんばんは」


 聞き慣れた、低くてやわらかい声。

 黒のコートを脱ぎながら入ってきたのは、橘航平だった。


(……来た)


 それだけで、空気が少しあたたかくなる気がする。


「いらっしゃいませ」


 仕事用の声で迎えながらも、

 美月の目の奥だけは、恋人としての色を灯していた。


 その視線を受け取って、

 航平の口元がわずかにほころぶ。


「今日も、ここ?」


「……はい。いつもの席、空いてます」


 金曜日。

 “彼の席”は、自然に決まっていた。



 カウンター越しに、

 ふたりはいつも通りの客と店員の距離を保つ。


 けれど——

 そのほんの少し下。

 カウンターの影になった場所で、指先がかすかに触れた。


 美月がグラスを置いた瞬間、

 そっと、航平の指がその手の甲に触れる。


 ほんの一瞬。

 誰にも見えない、小さな触れ合い。


(……ずるい)


 胸の奥が、じんわり熱くなる。


 視線を上げると、

 航平は何事もなかったような顔で、

 でも目だけはやさしく笑っていた。


「今日のおすすめは?」


「えっと……柑橘のカクテルを。少し、甘めですけど」


「いいね。……金曜日だし」


 “金曜日だし”とさらりと言われるだけで、

 ただの会話が、特別な合図に聞こえる。




 その夜の「Bar Toyo」は、

 程よく賑やかで、程よく静かだった。


 常連も、初めての客も、

 それぞれの時間を穏やかに楽しんでいる。


 豊は、いつもと変わらない手つきで酒をつぎながら、

 ふとカウンターの向こう側のふたりを盗み見る。


 目が合う。

 美月と航平——

 恋人になったばかりの、まだ少しぎこちない笑顔。


(……金曜日の顔だな)


 心の中で、そう小さく笑う。


 その一方で、

 胸の奥には別の重さが沈んでいた。


(明日か……)


 ポケットの中の感触を思い出す。

 招待状。

 「芦屋健司 個展」


 明日、昼間。

 豊は久しぶりに、その名を真正面から見に行く。


(玲子……)


 亡き妻の名前を飲み込み、

 豊はグラスを拭く手を、いつも通りのリズムに戻した。


 視線を上げると——

 恋の始まりを生きている娘と、

 その隣で、彼女を守るように座る男がいる。


(……金曜日は、もうあいつらのもんだな)


 ほんの少しだけ寂しくて、

 でも、それ以上に誇らしい。




 閉店間際。


 客が帰り、

 店内には豊と、美月と、航平だけが残った。


「今日は、静かにいい夜だったな」


 豊がそう言いながら、

 レジを締める。


「はい。なんか……ほっとする金曜日でした」


 美月が笑う。


「……来週も?」


 航平がさりげなく問うと、

 美月は一瞬きょとんとして——すぐに頬を染めた。


「……来週も、再来週も……

 金曜日は、ここにいます」


「じゃあ、俺も来ないとな」


 軽い口調。

 でも、その奥に“約束”がにじんでいた。


 豊は背を向けながら、

 その会話をちゃんと聞いている。


「おい、金曜日の男」


「……はい?」


「毎週ちゃんと来いよ。

 途中でサボったら、うちのが泣く」


「豊さん、そういう言い方……!」


 美月が抗議する声に、

 航平は少し照れながらも、静かに頷いた。


「……サボりません」


 短い返事が、妙に頼もしかった。




 片付けが終わり、

 三人で店を出る。


 夜風はひんやりしているのに、

 心は不思議とあたたかい。


「じゃあ、俺はこっちだ。

 気をつけて帰れよ」


 豊はふたりと道を分かれ、

 ひとりで駅の方へと歩いていく。


 背中が少しだけ重そうに見えたのは——

 きっと、明日の個展のせい。


 それに気づいているのは、読者だけで。

 美月は、まだ知らない。




 ふたりきりになった帰り道。


 街灯の下で、

 航平がそっと手を伸ばした。


「……手、いい?」


「もう……いまさら……」


 そう言いながらも、

 指は自然に絡んでいく。


 恋人になってからの初めての金曜日。

 その手の温度は、前よりも近くて、前よりも落ち着いていた。


「前はさ」


 美月がぽつりとこぼす。


「金曜日って……一週間で一番、苦しい日だったんです」


「うん」


「妄想の中だけで恋して、

 誰も私のことなんて見てないって思って……

 でも、お客さんには笑顔でいなきゃいけなくて」


 少しだけ、自嘲みたいに笑う。


「でも今は……一番、好きな日です」


 その言葉に、

 航平の指先が、きゅっと美月の手を握った。


「……よかった」


 短いのに、

 どうしようもなく嬉しそうな声だった。


「金曜日の男は?」


「はい?」


「……今は、誰のもの?」


 少しだけ意地悪な問いかけに、

 美月は恥ずかしそうに笑って、きっぱりと言った。


「私の、です」


 その答えがあまりにも真っ直ぐで、

 航平は思わず俯いて笑う。


「……じゃあ、金曜日は

 ずっと“美月の金曜日”だな」


 そう言って、

 歩道の陰でそっと短いキスを落とした。


 静かな、穏やかな金曜日。


 でもその夜は——

 翌日に待つ“もうひとつの物語”の前触れでもあった。


 まだ誰も、それに気づいていないまま。


少し読者を巻き込んたのにお気づきでしょうか。

もう一つの金曜日はちょっと大人に物語。

ゆっくり読んでください。


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