第72話 金曜日の夜:灯りの下で、失くしたものと向き合う(芦屋健司サイド)
個展会場の鍵を開けると、
夜の静けさがそのまま室内に流れ込んできた。
天井のライトは半分だけ点いていて、
白い壁に映る自分の影が長い。
芦屋健司はゆっくりと会場を歩いた。
展示前夜のギャラリーには、
特有の緊張と熱がある。
仕上げた絵画のチェック。
照明の角度。
温湿度の調整。
……だが、今日の彼の足は、
自然と“奥の展示室”へ向かっていた。
そこに、一枚の布の掛かった絵がある。
玲子が「いつか描いてほしい」と言った最後の絵。
未完成のまま、十数年が経っている。
(……完成させる資格なんて、俺にあるのか)
布の端に触れながら、
芦屋は静かに息を吐いた。
玲子の手紙の記憶が、胸に刺さる。
『美月のお母さんである私を、
これ以上揺らさないでください』
それは拒絶ではなかった。
でも、確かな“線引き”だった。
あのとき――
美月を養女に、と持ちかけたのは自分だ。
子どもが授からなかった友梨を想って。
玲子と豊の家族に甘えて。
そして……幼い美月の笑顔に、救われてしまった自分の心をごまかすために。
(愚かだったよ、俺は)
友梨を守れなかったのも、
玲子を困らせたのも、
全部自分の弱さだった。
なのに今また、
あの子の前に現れてしまった。
(でも……)
美月は、笑った。
幼い頃に自分の腕によじのぼって、
よく笑っていた玲子のように。
その笑顔を見た瞬間――
胸の奥の何かが、やっと動き出した気がした。
自分の中でずっと止まっていた時間が、
少しだけ進んだ。
そのとき、スマホが軽く震えた。
豊からのメール……ではない。
だが名前を見た瞬間、
芦屋は目を細めた。
友梨。
離婚して何年も経つのに、
互いに必要最低限の連絡だけは続いている。
短い文だった。
『今日、豊さんから電話あった。
……明日、行くわ』
(来る……のか)
胸の奥で、何かがゆっくりと軋んだ。
友梨は強い女だ。
泣くときは必ずひとりで泣く。
自分に弱さを見せることは、最後までしなかった。
あの頃の彼女を、
守ったつもりになって、
逃げるように別れた。
(俺が……壊したんだよ)
そう思いながらも、
返信しようとはしなかった。
友梨が来るというなら、
会う覚悟をすべきだ。
逃げるわけにはいかない。
ふと、奥の絵に視線が吸い寄せられる。
玲子の面影を写した、未完成の肖像画。
布越しなのに、そこに彼女が立っているようだった。
「……玲子さん」
静かな呼びかけ。
その名を口にしたのは、もう何年ぶりだろう。
「ようやく……向き合える気がするよ」
豊が今日言った言葉が蘇る。
『……もう、逃げるなよ芦屋』
逃げていた。
玲子からも、友梨からも、
美月からも。
だが今なら。
(美月ちゃんが……背中を押したのかもしれないな)
彼女の笑顔には、人の心を再生させる力がある。
玲子と同じ、
だけど玲子とは違う、
“未来へ進む力”が。
芦屋は席に戻り、
未完成のキャンバスの前に腰を下ろした。
そして筆を取る。
「……少しだけ進めてみようか、玲子さん」
キャンバスに白い絵の具が落ちた瞬間、
止まっていた時間が、ほんのわずかに動いた。
夜が深くなった頃。
豊は自宅のキッチンでスマホを見つめていた。
迷って、
迷って、
それでも――電話をかけた。
相手は友梨。
「……あいつと、ちゃんと向き合ってやれ」
静かな声でそう告げると、
受話器の向こうから短い息が聞こえた。
『……明日、行くわ』
そう言って通話は切れた。
豊は天井を見上げて、
深く息を吐いた。
(……明日、全部動き出す)
その予感だけが、確かなものとして胸に残った。




