第71話 金曜日の夜:胸の奥で、まだ終わっていない痛み(友梨サイド)
夜のリビングには、テレビもつけていない。
静かすぎる空間に、ひとつだけスマホの着信音が響いた。
──豊。
(……珍しいわね。こんな時間に)
通話を押すと、懐かしいような、遠いような声が耳に届いた。
「……友梨か。今、大丈夫か?」
「ええ。どうしたの?」
声が硬い。
豊がこんな風に話すなんて、よほどのことだとすぐ分かった。
「……今日、芦屋の個展に行ってきた」
一瞬、息が止まった。
あの名前を聞くだけで、
胸の奥に“扱いづらい感情”がざらりと浮かび上がる。
「……そう。行ったのね」
声が震えないように、ゆっくり息を吐く。
豊は続けて言った。
「美月の話を……あいつ、知ってた」
「……っ」
思わず唇を噛む。
芦屋が美月の事を知っているのは、
自分が伝えたから──当然のことだ。
「悪気はなかったのよ、豊。
美月が元気で働いてるって、言っただけ」
「そうか……やっぱりそうか」
豊の声は責めているわけではない。
けれど、胸の奥の古い傷がじんと痛む。
(私だって……忘れていたわけじゃないのに)
豊が静かに言葉を続ける。
「……お前は、芦屋のことをどう思ってる?」
その質問は、不意打ちだった。
「どう……って?」
「昔のことだ。
お前とあいつの間にあった“気持ち”を、
俺は知ってる」
「……豊」
声が揺れた。
芦屋と結婚した頃の自分を思い出す。
希望もあった。
幸せになれるはずだった。
でも、子供ができなくて──
治療にも疲れて、
笑うことが減っていって。
そんな時だった。
玲子が美月を抱いて笑っていた。
あんなに優しい目をして。
(……羨ましかった。妬ましかった。
でも、同時に……救われてもいた)
何度会っても、ちいさな美月は笑ってくれた。
抱っこをせがんでくれた。
心のどこかで、思ったことがある。
(この子が自分の娘だったら……)
芦屋も同じだった。
だから、あんな無茶なことを言った。
『美月ちゃんを……養女に迎えたい』
あれは芦屋だけの暴走じゃない。
……本当は、自分の奥にもあった願いだった。
でも、玲子は泣いた。
豊は激怒した。
“間違っていた”ことは、誰より自分が一番分かっていた。
返事をせずに沈黙していると、豊が静かに言った。
「……芦屋は、変わろうとしてるのかもしれん」
「変わる……?」
「ああ。
あいつ……まだどこかで立ち止まってる気がした。
玲子にも、お前にも、そして美月にも……」
豊の言葉に胸がきゅっと締まる。
(健司……あなた、まだあの頃のままなの?)
「……ねぇ豊」
「ん?」
「私は……もう“戻れない”わ。
でもね……健司には、前に進んでほしい」
言いながら、涙がこぼれそうになる。
「玲子がいないこと、ずっと悔やんでいたのは私よ。
あの人にしか描けない絵があった。
あの人にしか救えない心が……健司にはあった」
豊が小さく息を呑む音がした。
「でもね……美月が幸せなら、私はそれでいいの。
美月が笑ってくれるなら……」
声が震えてしまう。
「私はもう……過去に縛られたくない。
あの絵が完成した時、きっと私は……
本当に前を向ける気がするのよ」
豊が、静かに呟いた。
「……友梨。ありがとな」
「どうしてあなたが礼を言うのよ」
「お前がそう言ってくれて……少し安心した」
「ふふ。珍しいわね、あなたがそんなこと言うなんて」
少しだけ、二人に昔の空気が戻る。
「じゃあ……豊。
美月のこと、お願いね」
「ああ。任せとけ」
「うん。……じゃあね」
通話が切れ、
静かな部屋に戻る。
胸に残った痛みは消えないけれど──
それでも少しだけ、息がしやすくなっている気がした。
(健司……あなたも、前に進めるといいんだけど)
しぼんでいた心が、ほんの少しだけ、温かくなる夜だった。




