第69話 金曜日:豊が向かった場所(豊サイド)
朝の空気は冷たく澄んでいた。
店を閉めたままの「Bar Toyo」の前で鍵を回しながら、豊は深く息を吐く。
(……行くか)
ポケットの中には、一枚の招待状。
白い厚紙に印刷された文字──
「芦屋 健司 個展」
先週の金曜日に突然現れてから、豊の心は落ち着かないままだった。
美月は知らない。
だが芦屋は、美月が生まれた頃、何度も家を訪れている。
玲子の姉・友梨の夫として。
そして、玲子を“妹のように”大切にしていた男として。
芦屋が美月の名を自然に口にできたのは──
本当は、豊から聞いたからではない。
(……覚えてるに決まってるだろ。あんだけ会ってりゃな)
美月が笑うたびに、抱き上げるたびに、芦屋の表情は柔らかくなった。
その頃はまだ、友梨との間に子ができず傷ついていた時期でもあった。
だから──あの言葉が出た。
『美月ちゃんを……養女に迎えたい』
優しさと弱さが混ざった、迷いの言葉。
玲子を泣かせた言葉でもある。
(あいつも……あれから色々あったんだろう)
タクシーを拾い、ゆっくりと画廊へ向かう。
白い外壁と大きなガラス窓。
芦屋の画廊は以前より静かだが、どこか柔らかい空気があった。
ドアを開けると、芦屋がひとり展示準備をしていた。
豊の姿を見るなり、芦屋は少し目を細めた。
「来てくれたんだ、豊さん」
「お前みたいなやつの招待状、捨ててもよかったんだけどな」
「ふふ。来ると思ってたよ」
挑発でもなく、ただ静かに嬉しそうな声だった。
「……この前のことだが」
豊が切り出すと、芦屋は手を止めた。
「美月の名前を知ってた理由……お前、言わなかったな」
「聞かれなかったからね」
「“昔聞いた”なんて言い方しやがって」
「だって本当だよ? “昔”って言葉に嘘はない」
芦屋は肩をすくめる。
「生まれたばかりの美月を抱いた記憶、忘れるはずないだろう」
その声は、驚くほど穏やかだった。
(……そういやあの時も、嬉しそうにしてたっけな)
「それで……先週、うちへ何しに来た?」
豊の問いに、芦屋は少しだけ言葉を選ぶように視線を落とした。
「再確認、かな」
「……何をだ」
「俺が……まだ“ここ”に戻れるかどうか」
“ここ”。
それは、友梨と共にいた日々であり、玲子と笑った家族の記憶であり、
そして美月が無邪気に名前を呼んだ場所。
「友梨とはもう戻れない。
でも、俺が壊したものを……少しでも埋められるかと思ったんだ」
胸の奥が静かに疼くような声だった。
「美月ちゃん……昔の玲子さんに似てたよ。
笑うと特に、ね」
豊は何も言わなかった。
知られたくなかったことを、それでも芦屋は正確に見抜く。
「だから、会って嬉しかった。
でも同時に、呼ばれてない場所に踏み込んだ気もした」
「……なら帰れ」
思いがけず強く言ってしまう。
芦屋は一瞬驚いたが、すぐに苦笑に変わった。
「豊さんらしいや」
展示室の奥、布をかぶせたままの大きなキャンバスがあった。
豊が視線を向けると、芦屋はその前で立ち止まる。
「……玲子さんの絵はまだ完成してない」
「知ってる」
「彼女が“描いてほしい”と言ってくれた最後の絵だ」
豊は眉をひそめた。
「もう……手ぇつけなくてもいいんじゃねぇのか」
「そう思ってた。
でも、この前……美月ちゃんの顔を見て、少しだけ描ける気がした」
優しさでもなく、執着でもない。
ただ“再生”を始めようとしている人間の声だった。
「豊さん。
美月ちゃんは……幸せになりそうだね」
「……ああ」
「“金曜日の人”も、悪くなかった」
豊は少しだけ目を細めた。
「ちらっとしか見てねぇだろ、お前」
「十分だよ。
男の目を見れば、女を見るときの本気が分かる」
その言葉は、芦屋自身の痛いほどの経験からくるものだった。
画廊を出る前、芦屋が声をかけた。
「豊さん。
……俺、多分またここに来る。
昔みたいにじゃなくて……今の自分の足で、ね」
「勝手にしろ」
「うん。勝手にするよ」
歩き出す豊の背に向かって、芦屋は柔らかく微笑んだ。
その表情は、
過去を手放し、ようやく自分を取り戻しはじめた男のものだった。




