第68話 Thursday Night:静かな店に残った影(豊サイド)
美月と航平が手を繋ぎ、店の前の細い路地に消えていったあと。
「Bar Toyo」には、氷が溶ける音だけが静かに残った。
「……まったく、あいつらは」
照明を一段落としたカウンターの上で、豊は静かにグラスを拭いた。
美月の笑顔は柔らかく、航平の歩幅はいつもより少しだけ速かった。
あのふたりの距離が、もう戻ることはないと感じる。
悪い気分ではない。
むしろ——胸が少し温かい。
だが。
カウンターの端に置かれた一枚の封筒が、豊の表情を変えた。
封筒には上質で重みのある紙。
差出人は──
「芦屋 健司」
その文字を見るだけで、背中に薄いざわりが走る。
「……なんで今になって」
封筒を開くと、中には招待状が入っていた。
⸻
『個展 “Trace of Light”
芦屋健司 銀座・未来画廊
— あなたにも、ぜひ来てほしい』
⸻
裏には小さく一言。
『豊さんへ。話がしたい』
その文字は、昔と変わらず癖のない静かな字だった。
(話、ね……)
嫌な予感しかしない。
手にした招待状を軽く揺らしながら、豊は深いため息をひとつ落とした。
「……美月には、関係ない話だ」
そう言い聞かせても、胸の奥は重い。
美月が知らない「玲子の過去」。
芦屋が抱えていたもの。
玲子が亡くなる前に豊へ伝えたこと。
すべてが、明日を境にもう一度動き出す気がした。
逃げるわけにはいかない。
目をそらすほど無責任にもなれない。
「行くか……明日」
静かにそう呟くと、招待状をポケットにしまった。
店の照明を落とし、最後のロックをかける。
冬の夜風が店の前を吹き抜けた。
明日は金曜日。
美月は恋のことで胸がいっぱいだろう。
航平は大切な話をする日だ。
——その裏側で、豊は別の“金曜日”を迎える。
「玲子……俺は間違ってないよな」
誰に届くわけでもない小さな声が、暗い店内に静かに沈んでいった。




