第66話 Thursday Night:確かめる距離
木曜日の夜。
「Bar Toyo」は、雨上がりの湿気を含んだ空気の中で、ゆっくりと照明を落としていた。
店内には落ち着いた香りが漂い、
静かなジャズの音がグラスの縁を震わせていた。
カウンターの奥でグラスを磨く豊の視線が、
ふと入口の方へ滑る。
──カラン。
ドアベルが鳴いた。
「こんばんは」
橘航平だった。
昨日の夜を知っている豊は、
その声だけで、いつもと違う“柔らかさ”を感じ取った。
「おう、来たか」
豊が軽く笑うと、
美月は振り向き、視線が重なった瞬間、
ほんの一瞬だけ頬を赤くした。
(……昨日の続きがあるみたいだ)
誰も口にはしないのに、
店の空気には淡い熱が流れていた。
航平はいつもの席に座ったが、
今日はどこか落ち着かず、
しかし幸せそうでもあった。
「……来てくれて、嬉しいです」
美月が差し出したのは、
いつもより少し丁寧に作られたジンソーダ。
「ありがとう」
航平の声は、昨日より深くて温かい。
美月はその変化に気づくと同時に、
胸の奥がじんわり熱くなる。
豊は表面上は無関心を装いながらも、
二人を見守るように、
照明を少しだけ落とした。
(……やっとか)
(だがまだ“初日の翌日”なんだ。落ち着けよ、2人とも)
そんな苦笑を心の中に隠しながら。
ひとしきり店が落ち着いた頃、
美月が航平のグラスを確認しようと近づく。
「そろそろ……おかわりしますか?」
「あぁ。でも……」
航平は美月の手首を軽くとらえた。
昨日よりも自然に、少しだけ強く。
「……少し、ここにいて」
低い声だった。
囁くような声に、美月は胸が跳ねる。
「う、うん……」
美月は照れた笑みを浮かべながら、
航平の隣のスペースにそっと立った。
それだけで、距離が一気に近づく。
航平が言葉を探すように、
目線を逸らして、また美月に戻す。
「……昨日から、ずっとね。
君の顔を思い出してばかりなんだ」
「……わ、私も……です」
まだ視線を合わせるとドキドキしてしまう。
でも離れるのは嫌だった。
しばらく沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は、
気まずさではなく──
“恋人同士だけに許される静けさ”に満ちていた。
やがて美月が小さく笑った。
「……なんか、変ですね。
昨日あんなに近かったのに……今日は照れちゃう」
「俺もだよ」
航平も、微笑んだ。
「でも……昨日より、もっと好きだ」
「っ……!」
美月は一瞬で耳まで赤くなった。
その反応を見て、航平も緩く笑う。
「……可愛い」
もう誤魔化すこともしない。
航平は“恋人として”の美月を、
しっかり見つめていた。
閉店後。
豊は照明を落としながら背を向けて言った。
「美月送ってってもらえ。今日は風が冷たい」
「ありがとう、お父さん」
「……豊さん、ありがとうございます」
ふたりは一緒に店を出た。
店の外、雨上がりの路面に街灯が映り込み、
ふたりの影をひとつにまとめていた。
美月がそっと航平の袖に触れた。
「今日……会えてよかった」
「俺も。
……昨日だけじゃ、足りないから」
航平が手を伸ばし、
美月の指をそっと絡めた。
強く握りすぎない。
でも離すつもりもない──
そんな優しい手だった。
木曜の夜は、
恋人になった二人の距離を
確かめながら深まっていった。




