第65話 Thursday Noon:触れた温度が、まだ消えない
午前の仕込みを終えて、
店内にひとり残った。
静かなカフェの空気。
流れているのは、いつものジャズ。
なのに今日は──
全ての音がどこか遠く感じる。
(……まだ、夢みたいだ)
深く息を吸うと、
昨夜、美月の部屋に流れていた柔らかい香りが
ふっと胸の奥でよみがえる。
腕の中で震えた小さな肩。
抱きしめた時の温度。
見上げた瞳の濡れた光。
自分に触れようとしてくれた両手。
すべてが指先に残っている。
(……あんなふうに、俺を求めてくれるなんて)
喉の奥が熱くなる。
欲しさに任せるだけじゃなく、
大切に触れたかった。
怖がらせたくなかった。
なのに──
彼女の方が先に腕を回してきて、
ゆっくり瞳を閉じてキスを求めてきた。
その瞬間、
最後の理性がほどけた。
(……美月)
名前を呼ぶだけで心臓がじわりと跳ねる。
眠る前、彼女の髪に触れたら、
くすぐったそうに笑ったこと。
自分の胸の上で指をそっと握り返してきたこと。
朝、目を開けた瞬間に見た、
あの少しはにかんだ顔。
(……全部、持っていかれたな)
今こうしてコーヒーを淹れていても、
ふとした拍子に手が止まる。
昨夜の感触が思い出されて、
胸が熱くなるから。
カウンターの椅子に腰を下ろした。
美月から、
「無事に着いたよ」「午後も頑張るね」
とメッセージが来ていた。
“ね” という柔らかい語尾が、
胸の奥でそっとほどける。
(……かわいい)
思わずため息のように笑ってしまう。
こんな気持ちになるなんて、
ほんの数週間前まで思っていなかった。
いや──
ずっと前から、
彼女を気にしていたのに
きちんと向き合わなかっただけなのかもしれない。
「……今日も迎えに行くって言ったけど」
本当は今すぐ声が聞きたい。
触れたくて仕方がない。
でも、
“急ぎすぎたら壊れる”
そんな気もして、
少し胸が痛む。
(せかしたくないのに……会いたい)
分かっている。
昨夜は勢いじゃなく、
お互いが求めた結果だって。
でも、
「大事にしたい」
その気持ちだけは、
どうあっても変えたくなかった。
美月の笑顔を思う。
(……今日の夜も、その笑顔が見たい)
エスプレッソマシンのスイッチを入れながら、
ふっと微笑んでしまった。
指に残る
彼女の温もりが、
まだ消えない。
(……美月。会いたい)
その想いが
ゆっくり身体の奥で熱を帯びていく。




