航平視点:Friday Night — 触れたら崩れる距離2
バーの扉を閉めたあとも、足が動かなかった。
夜風が頬を撫でても、火照った胸の熱はまるで冷えない。
——美月の顔が、頭から離れない。
カウンター越しに目が合ったときの、
驚いたような、戸惑ったような、
それでもほんの少し俺を求めているような表情。
あれを見て、冷静でいられる男がいるだろうか。
……いない。
胸の奥に残る熱を持て余しながらも、
窓越しに店内をちらりと見る。
美月がグラスを拭きながら父親と話している。
笑顔が照明に照らされて、
まるでそこだけ別世界みたいに見えた。
——あの笑顔を、自分だけに向けられたら。
想像した瞬間、呼吸が浅くなる。
どれだけ「妹みたいな存在」だと自分に言い聞かせても、
今日の美月は違った。
俺を見るときの視線が……揺れていた。
気づいていないふりをしたのは俺の方だ。
歩き出そうとしたが、
どうしても足が止まってしまう。
(……触れてみたら、どうなるんだろう)
馬鹿な考えだ。
でも、一度浮かんだら最後、頭から離れなかった。
美月の指先。
シェイカーを握る時のわずかな震え。
カウンター越しに伸びた細い手首。
ふと見せた伏し目がちな横顔。
どれも、触れたら崩れる気がした。
俺の理性じゃ止められなくなる。
(……美月は、気づいていないんだろうな)
俺がどんな気持ちで、
週に一度だけここに来ているか。
来ない日が続けば忘れられるかと思ったこともあった。
でも無理だった。
彼女の笑顔は、一度見たら離れない。
優しくて、不器用で、
少しだけ無防備で——
守りたくなる。
抱きしめたくなる。
そして……
唇に触れてみたいと思った自分に驚いた。
(……本当、どうかしてるな)
40歳にもなって、
こんなふうに誰かに惹かれて、
呼吸が乱れるなんて思わなかった。
でも、美月は。
美月だけは、特別だ。
ふいにスマホが震えた。
画面には“豊”の名前。
《また来週も来いよ。美月、今日嬉しそうだったぞ》
その文章を読み終えた瞬間、
胸に熱が広がった。
(……嬉しそう、か)
それが、俺のせいなら。
そう思っただけで、
心臓が強く脈打った。
美月の笑顔が、自分の言葉のせいで揺れたのなら——
それは反則級に嬉しかった。
でも同時に、恐ろしくもあった。
(好きになったら、どれだけ夢中になるのか……自分でも分からない)
だから“ゆっくり”。
それが俺の唯一の理性だ。
焦らない。
でも——離れない。
その距離感を守れるのも、もう時間の問題かもしれない。
夜空を見上げながら、
俺はひとつ、小さく呟いた。
「美月……次会ったら、もう少しだけ近づいてもいいか?」
誰もいない夜の街に、
その声は静かに溶けていった。
指先が、彼女に触れる未来を思い描きながら。




