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妄想恋愛ばかりしていたら、金曜日に本物がきた。  作者: つなかん


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第60話 Wednesday Night:雨上がりの静けさと、揺れる心

雨脚がようやく弱くなりはじめた頃──

 黒田は、濡れたアスファルトの上をゆっくり歩き出した。


 背中には、いつもと違う“静かさ”があった。

 薬指にあったはずの指輪はもうどこにもなく、

 それが航平の胸の奥を、じわりと締めつけた。


 航平は、見送るようにその背中を黙って見ていた。


(……あの人が、“水曜日の男”)


 黒田の纏う空気。

 豊にしか見せない、あの大人同士の会話。

 美月が傘を渡す姿。


 全てが、航平の中で静かに波紋を広げていた。


 


 美月は航平の横顔を不安そうに見つめていた。


(航平さん……こんな顔、初めて見る)


 嫉妬とは違う。

 警戒とも違う。

 もっと深くて、もっと複雑で──

 それをどう言葉にしていいのか、美月には分からなかった。


 自分が何を言えばいいのかも、分からない。


 声をかけようと口を開きかけた瞬間。


 


「……おい」


 豊が店の奥から現れた。

 少しだけ雨に濡れた肩を払うようにして、ふたりに近づいてくる。


 美月は思わず、


「……お父さん」


 と声をかけた。


 その声には、迷いと不安が入り混じっていた。


 


 豊はそんな娘の心の揺れを、ひと目で読み取った顔だった。

 そして、航平の胸に広がっているざわつきも理解したように、静かに息を吐いた。


「……美月」


 優しく、でもどこか意味ありげな声で娘を呼ぶ。


「大丈夫だ。何も心配するな」


 そう言って、美月の肩にそっと手を置く。


 そして続けた。


「ちょっと裏に置き忘れた“飲みかけのグラス”がある。悪いが、持ってきてくれないか」


「……え? 今?」


「今だ。頼む」


 美月は一瞬だけ戸惑ったが、

 豊の目が「分かれ」と言っているのを読み取った。


「……うん。分かった」


 返事をして店の奥へ向かう。


 


 美月がいなくなるのを確認してから──

 豊は静かに航平の隣に立った。


 雨の音がさらに小さくなり、

 街灯に照らされた空気が少しずつ澄んでいく。


 二人の間に流れる沈黙は、

 “父親としての沈黙”であり、

 “男同士の沈黙”でもあった。


 


 豊はゆっくりと、航平の横顔を見た。


「……あいつは、気にするな」


 低く、柔らかく、しかしはっきりと。


「黒田のことか」とは言わない。

 けれど、そのつもりで言ったのが航平には分かった。


 


 航平は視線を落とし、


「……気にしてない、とは言えません」


 正直に答えた。


 


 豊は小さく笑って、

 それを責めるでもなく、ただ呟いた。


「なら……そういう顔を、あいつ(美月)には見せるな」


 


 それは、怒りでも説教でもなかった。


 ただ、美月の未来と気持ちを守るための言葉。


 父親としての愛情のある釘。


 


 航平は息を吸い、雨の匂いを胸に入れながら答えた。


「……はい」


 


 豊はふっと笑う。


「心配するな。

 あの男は……線を越えない男だ。

 越えられない事情もある」


 それ以上は言わない。


 言わなくてもいい。


 航平は、その一言で胸の重みが少しだけ解けていくのを感じた。


 


 そのタイミングで──


「お父さん、グラス……持ってきたよ」


 美月が戻ってきた。


 雨の匂いの中で、彼女の姿だけがやわらかい光を纏っているように見える。


 豊は、受け取ったグラスを軽くあげて、


「ありがとう」


 とだけ言った。


 


 航平は美月に視線を向ける。


 美月も航平を見返す。


 ほんの数秒なのに、

 その眼差しの中で、互いの不安も、温度も、

 全部がそっと触れ合った。


 


(大丈夫……だよね?)


(大丈夫。君のこと、離さない)


 


 言葉にはしない会話が、静かに交わされた。


 


 まだ湿った夜気の中で──

 新しい水曜日が、静かに動き始めていた。

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