第59話 Rain Shelter:雨の下で揺れる距離
店の軒下に集まった三人と一人。
雨は、さっきよりも強くなっていた。
ぽつ、ぽつ──だったはずの雨音は、
今では地面を叩く一定のリズムへと変わり、
夜の空気をしっとりと冷やしている。
豊が腕を組み、空を見上げた。
「……こりゃ、しばらく止まねぇな。
雨宿りしてけ」
黒田は軽く笑った。
さっきバーボンを飲み干した時と同じ、
どこか吹っ切れたような表情だ。
「ありがたい。
傘もらったのに、この降り方じゃ意味ないね」
美月が持ってきた黒い折りたたみ傘を
黒田は軽く揺らして見せた。
その横で──
航平は、言葉を失っていた。
“水曜日の男” が今、目の前にいる。
そして、美月が「黒田さん」と呼んだ。
それだけで胸の奥がざわつくのを、
自分で抑えきれずにいた。
(……この人が、黒田さん)
そう思った瞬間。
黒田が穏やかな笑みを向ける。
「橘くん、だっけ? 美月ちゃんが呼んでた」
「……はい。橘です」
「よろしく。豊さんのところに通ってるんだって?」
「……はい」
気づかれないようにしているが、
航平の声にはわずかな緊張が滲む。
(こんな……落ち着いた人なんだ)
黒田の大人の余裕が、
航平にとっては未知の“強敵”に思えてしまう。
美月が気づいて、
そっと航平の隣に立った。
「……さっきは、ごめんなさい。
びっくりして……」
その声だけで、
航平の肩の強張りがゆるむ。
ふいに豊が二人を見て、
にやっと笑った。
「まぁまぁ、せっかくの雨宿りだ。
三人で仲良くしとけ。
俺はタバコ吸ってくる」
そう言って店の裏へと去っていく。
(……置いていくなよ、豊さん)
航平が心の中で突っ込みを入れた頃には、
もう豊の背中は見えなかった。
残された三人。
黒田は壁に背を預け、
雨の向こうを静かに眺めていた。
時折、濡れたアスファルトに視線を落とす。
まるで、
何かを区切るように指輪のない薬指を
さりげなく触れる。
(指輪……ない)
美月はそれに気づき、
胸の奥がそっとざわつく。
航平も気づいた。
そして、その意味を知らないがゆえに、
余計に胸がざわめいた。
沈黙を破ったのは黒田。
「雨って、嫌いじゃないんだ」
ぽつりと落ちる声は、
大人の深さを纏っていた。
「強い雨ほど……人間、素直になるからね」
「素直……?」
美月が小さく聞き返す。
黒田は軽く笑った。
「隠してる気持ちとか、濁ったままのこととか。
雨音で全部かき消される。
だから……本音を言いやすくなるんだよ」
意味深なのに、優しい声。
(……どういう意味?)
美月は胸がざわつく。
その横で、航平がそっと息を飲んだ。
(……まるで、俺たちのことを見透かしてるみたいだ)
黒田は続ける。
「豊さんの娘が……こうして誰かと並んで立つの、
なんだか不思議だね」
「え……?」
美月が戸惑う。
「俺も長くこの店に通ってきたけど、
美月ちゃんがこんな顔するの……初めて見る」
その言葉に、
航平の胸がぎゅっと熱くなる。
(……見てたのか。この人も)
黒田は優しく笑った。
「安心したよ。
美月ちゃん、ちゃんと恋してる顔してる」
ドクン。
美月の心臓が跳ねる。
航平の胸の奥も、熱さを増す。
「……だから、大丈夫だよ」
「大丈夫?」
「うん。ちゃんと前を向いてる顔だ。
その顔なら……誰にも奪われない」
(……誰にも奪われない)
その言葉が、航平の胸に静かに刺さる。
黒田は雨の先を見つめたまま言った。
「橘くん」
「……はい」
「美月ちゃんのこと、大事にしてやってね」
その声には、
本物の優しさと、わずかな寂しさが混じっていた。
航平は小さく息を吸い、
まっすぐ黒田を見返した。
「もちろんです」
はじめて、真っ正面から向き合う男同士の視線。
その瞬間──
パチン、と雨音のリズムが強まり、
空気を引き締めるように響いた。
そして、
「……おう。なら、安心だ」
黒田はふっと笑い、
軒下の明かりの向こうを見つめた。
ほんの短い雨宿りだったのに、
心の中の距離は大きく揺さぶられた。
雨は、ほんの少しだけ弱くなってきている。
けれど三人はまだ、
その穏やかな雨の下で、
それぞれの想いを静かに抱えていた。
それが、今夜の雨がもたらした不思議な時間だった。




