第58話 Wednesday Night:雨音がつくる、奇妙な三角形
黒田が「Bar Toyo」のドアを押して出てきた瞬間、
夜の空気には、バーボンの香りがわずかに揺れていた。
雨がポツ、ポツ、と地面に落ち始めている。
(……バーボンの香り。豊さんの、だ)
店の前の細い路地に差し込んだ橘航平は、
すれ違いざまにその香りを嗅ぎとり、
胸の奥でひそやかに高鳴る何かを感じた。
(もしかして──この人が、水曜日の男……黒田さん?)
声をかけるべきか迷ったその時、
「カラン」と軽い音がして、店の扉が再び開く。
「黒田さん! 傘、忘れてますよ!」
美月が白い手に折りたたみ傘を持って、
小走りで追いかけてきた。
その姿を目にした航平の心臓が、一瞬だけ止まりかける。
「……美月」
思わず名前を呼んだ声に、
美月が振り返った。
濡れた前髪の隙間から、ぱっと明るい顔がのぞく。
「えっ……航平さん!?」
驚きに目を丸くしたまま、
傘を持つ指先がかすかに震えている。
黒田がその声に反応して、ゆっくり振り返った。
「航平さん、ね。君が……」
落ち着いた声。
そのまま、黒田は静かに一歩近づく。
「黒田です。美月ちゃんの……水曜日の知り合いですよ」
大人の余裕と影をまとった笑み。
黒田の視線が航平を穏やかに射抜く。
航平は軽く頭を下げた。
「橘航平です。……お世話になってます」
「こちらこそ。美月ちゃん、いい子でしょう?」
ふっと笑う黒田の横顔は、
雨の灯りに照らされてどこか哀しげですらあった。
美月はその間で傘を抱えながら、
どうしていいか分からず右目だけで航平を見た。
(……どうしよう。こんなタイミングで……)
彼女の胸がざわつき、頬が赤く染まる。
雨脚は少しずつ強まり、
店の看板の灯りが雨粒に滲み始めた。
その時──
「おいおい……雨の中、道ばたで立ち話してんじゃねぇよ」
豊が店から顔を出した。
片手にタオルを持ち、
もう片方の手を腰に当てながらため息をつく。
「黒田、お前は飲んでるんだ。濡れて風邪ひくぞ」
「……豊さん、相変わらずの心配性だ」
「航平、お前も傘ねぇんだろ。濡れる前に店に戻れ」
3人のあいだに流れる空気を見て、
豊がわずかに苦笑した。
「……なんだこの図は。
火曜日の男でもない、水曜日の男と金曜日の男……
おい、美月。人気者になったな」
「お父さん、からかわないで!」
美月が慌てて声を上げる。
黒田は薄く微笑み、
航平は少しだけ肩の力を抜いて見せた。
雨はアスファルトを叩き、細かい跳ね返りをつくっている。
「雨が落ち着くまで、少し待てよ。
……お前ら3人、風邪ひかれたら困るからな」
その言葉に、3人が同時に頷いた。
奇妙で、
でもどこかあたたかい三角関係のような空気。
雨音の下、
それぞれの胸に別々の感情が芽生えながら──
水曜日の夜は、静かに深まっていった。




