第57話 Wednesday:雨の気配と、水曜日の男
水曜日の朝。
窓の外はどんよりとした空が広がり、雲は重たく垂れこめていた。
(……降りそうだな)
航平は開店準備の手を止め、しばらく空を見上げた。
胸の奥には、昨日までとは違う、わずかなざわつきが残っている。
理由はひとつ。
(……水曜日、か)
“水曜日の男”──黒田。
豊が口にした「水曜日は気をつけろ」という言葉が、妙に頭の隅に残っていた。
まだ会ったこともない。
ただ噂と、豊の視線の温度だけで、何となく“只者じゃない”のを悟っていた。
(……会うつもりはないんだけどな。でも……どうしても気になる)
美月が、彼とどう関わるのか。
何を感じて、どう微笑むのか。
考えるだけで、胸に小さく熱が生まれた。
(俺……こんなに嫉妬深かったっけ)
自分の意外な一面に、苦笑が漏れる。
夜。
Bar Toyo の扉がゆっくりと開いた。
カラン……
美月はカウンターの中で、一瞬だけ肩を震わせる。
振り返ると──静かに微笑む黒田が立っていた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
美月は自然と姿勢が正される。
黒田の空気は、いつもと変わらないように見えた。
けれども、今日だけは違った。
美月の視線は、とある一点で止まる。
(……指輪が、ない)
黒田の左手薬指。
いつもそこにあった“境界線”が、今日は消えていた。
黒田はゆっくりと席に座り、豊の方へ視線を向けた。
「……豊さん。これが今の俺だよ」
穏やかな声なのに、どこか痛みを含んでいた。
豊は表情をほとんど変えず、ただ短く息を吐いた。
「……そうか」
その声には、驚きでも否定でもなく、
長い年月を知る男だけの深い理解があった。
美月は胸がざわつく。
(……2人には、私の知らない何かがある)
それを察した瞬間、黒田がこちらを見た。
「美月ちゃん、いつものジントニック。頼めるかな?」
「あ……はい」
手がわずかに震える。
黒田はその仕草を見て、微笑んだ。
「そんな顔しなくていいよ。今日はただの……通過点みたいな日だから」
意味を測れない言葉だった。
グラスに氷を落とし、トニックを注ぐ美月の背で、
豊が静かに黒田へバーボンのボトルを置いた。
「……飲め。俺からのおごりだ」
黒田は驚いたように目を瞬くが、すぐに小さく笑う。
「ありがとう」
そして、グラスに注がれた琥珀を一気に飲み干した。
その音がやけに強く響いた。
大人の男の、静かな覚悟のように。
美月は胸の奥がほんの少し苦しくなる。
(……黒田さん、なにがあったんだろう)
でも聞いてはいけない。
聞ける立場でもない。
そんな空気が分かるほど、
豊と黒田の間には長い時間が横たわっていた。
外はぽつり、と雨が降り始めた。
その音に気づいて、黒田は窓に視線を向けた。
「……雨か」
短く呟き、深く息を吐く。
そして美月に柔らかく微笑む。
「また来週。美月ちゃん」
「……はい」
黒田は立ち上がり、豊に軽く会釈した。
「じゃあ、豊さん。また」
「……応」
扉が閉まる。
店内に残るのは、雨音と、ほんの少しだけ重たい空気。
美月は静かに息を吸う。
(……航平さん、今なにしてるかな)
黒田の深い影を見たせいで、
美月は無意識に“明るいもの”を求めていた。
雨が強くなる。
その音を聞きながら、美月はそっとスマホを指先で触れた。
──会いたい。
ただ、それだけの感情が胸いっぱいに広がっていた。




