航平視点:Friday Night — 触れたら崩れる距離
店の扉を押した瞬間、
ひんやりした空気が肌に触れた。
金曜の夜。
週に一度だけ、この場所に来る。
本当は“週に一度”なんかじゃ足りない。
でも、頻度を増やしたら気持ちがバレそうで、
自分で距離を決めた。
その距離を守れると思っていた。
——今日までは。
美月がカウンターに立っていた。
柔らかい光に照らされて、
肩までの髪がふわりと揺れて、
目が合った瞬間、時間が一度止まったように感じた。
「……こんばんは」
声が少し低くなったのは、
彼女の表情に一瞬心を奪われたせいだ。
美月は少し驚いた顔をして、
それからゆっくり笑った。
「こんばんは、航平さん」
それだけで胸が熱くなる。
——まったく、この子は自覚がない。
シェイカーを握る美月の手がわずかに震えていた。
それだけで、胸の奥がざわつく。
(……緊張してる? 俺のせいでか?)
そんなこと、普段ならありえない。
美月にとって俺は、
ずっと“安全圏の大人”でしかなかった。
そう思っていた。
でも——
彼女の指先が震えている。それが俺を見てからだとしたら?
そんな期待を持つこと自体、危険だった。
「美月。無理しないで。ゆっくりでいいよ」
落ち着いた声を出そうとしたけど、
どうしても優しさが滲んでしまう。
その言葉に、美月がわずかに息を呑んだのを見逃さなかった。
(……可愛い)
喉が鳴りそうだった。
抑えるので精一杯だった。
カクテルを飲む。
氷が溶ける音が心に染みる。
「……美味しい。美月の味だね」
つい口からこぼれた言葉に、
美月は一瞬固まり、顔が真っ赤になった。
(しまった……)
“美月の味”なんて、どう考えても言いすぎだ。
心の声がそのまま出た。
誤魔化すように笑うと、
美月は戸惑いながらも、
どこかうれしそうにうつむいた。
その仕草が、
堪らなく愛おしかった。
店を出る前。
本当は言うつもりじゃなかった言葉が、自然と口をついて出た。
「……また来るよ、美月」
これは毎週のこと。
でも、次の一言は違う。
「次は、ゆっくり話したいな」
あの瞬間、
美月のまつげがかすかに震えた。
気づいていないだろうけど、
あれは“恋を意識した人間の反応”だ。
(……気づいたら、惹かれてるのは俺の方かよ)
自嘲気味に笑いながら、
扉を静かに閉めた。
外に出た瞬間、夜風が熱を奪っていく。
でも胸だけは熱いままだった。
歩き出そうとして——
どうしても店の窓を振り返ってしまう。
カウンター越しに、美月が父と話している。
照明に照らされた横顔が、驚くほど綺麗だった。
(……誰かのものになるなんて、耐えられるのか)
そんな独り言がふと胸に浮かぶ。
美月は自覚がない。
でも俺は、自分の気持ちをごまかせなくなっていた。
ゆっくり。
ゆっくりでいい。
焦らない。
——でも。
(もし、誰かが先に美月をさらったら……)
その未来を想像した瞬間、
喉の奥が焼けるように熱くなった。
「……嫌だな」
言葉にすると、隠しようがない。
本当は、もっと近づきたい。
本当は、触れたい。
本当は、美月の笑顔を独り占めしたい。
ただ、それを口にしたら、
もう戻れない。
だから航平は夜空を見上げて、
静かに息を吐いた。
「ゆっくりでいい。……でも離れないよ」
そう呟いて歩き出す足取りは、
金曜日より確実に、
美月へ向かっていた。




