第44話 Shonan Night:あなたを照らす灯りが、世界の全部だった
波の音が、静かに寄せては返す。
夕日はとうに沈み、
海岸には薄い群青の闇が落ちていた。
湘南の海沿いは、昼の賑わいをすっかり失い、
ぽつぽつと民家やカフェの灯りだけが遠くで揺れている。
(こんな海……初めて)
美月は足元の砂を踏みしめながら、
子どものようにきょろきょろとあたりを見ていた。
寒いのに、その目は嬉しそうに輝いている。
「ここ……航平さんの地元なんですよね?」
「うん。小さい頃、よく来てた」
「へぇ……なんか、意外……」
「意外?」
「なんとなく……もっと都会育ちって感じがして」
航平は少し照れたように笑った。
二人の足音だけが、砂を踏んで静かに響く。
ふたりの影は、
海に向かって細長く伸びていた。
(……今日、なんでここに連れてきたんだろう)
聞きたいのに聞けなかった。
でも、
理由は分かっている気がした。
海に近づくにつれ、
風が少しだけ強くなった。
美月の髪が頬に触れ、
航平はそっと手で押さえてやる。
「寒くない?」
「大丈夫です……なんか、気持ちいい」
「そっか」
短い言葉。
でもその声は、海よりも優しく揺れていた。
波打ち際近くまで来たところで、
航平はゆっくりと足を止めた。
美月もそれにつられて立ち止まる。
遠くの灯りが、ふたりを淡く照らす。
「……美月」
名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。
「はい……」
声が震える。
止められなかった。
航平は、ゆっくりと美月の方へ身体を向けた。
街灯の光が弱すぎて、
近くに寄らなければ表情が見えない。
それでも美月には分かった。
(……今日、言うんだ)
そう思った瞬間、呼吸が浅くなる。
航平は一歩、美月に近づいた。
ほんの数十センチ。
それだけなのに、あたりの空気が変わる。
声が、海風の中で静かに落ちた。
「……美月に、話したいことがある」
その言葉を聞いただけで、
手が震え始めた。
「ずっと……言えなかったけど」
航平は視線を落とし、
苦笑にも似た息を吐く。
「金曜日……言いかけて、やめたことがある」
「……」
「君の気持ちをちゃんと聞く前に言うのが……
なんか、違う気がして」
あの日の記憶が胸に刺さる。
震えた声。
涙に触れそうになったまなざし。
そして……“会いたかった”の言葉。
(あの日から……ずっと……)
美月の指がきゅっと縮こまる。
「でも……」
航平は顔を上げた。
夜の光の中、
その瞳だけははっきりと見えた。
「もう……我慢できない」
美月の息が止まる。
航平が、そっと美月の手を取った。
冷たい海風の中で、
その手だけは温かかった。
「……美月」
名前を呼ばれた瞬間、
涙が溢れそうになる。
「好きだ」
海の音に溶けるほど静かで、
でも胸の奥にまっすぐ落ちていく声だった。
「ずっと前から……
君の笑った顔も、ふっと見せる恥ずかしそうな顔も……
全部、好きだった」
美月の肩が震えた。
言葉が出ない。
息ができない。
でも、胸が苦しいほど嬉しい。
「美月」
航平の手が、そっと頬に触れる。
「……俺と、恋をしてほしい」
涙が、静かに落ちた。
美月は唇を噛んで、顔を上げる。
「……わたしも……ずっと……」
声が震えた。
「好き……でした……」
波の音が、静かに二人を包む。
航平は、美月の涙に触れないように、
そっと彼女の額に唇を寄せた。
優しく、触れるだけのキス。
夜の海だけが
その光景を見ていた。
二人だけの湘南の夜。
恋が、確かに始まった瞬間だった。




