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妄想恋愛ばかりしていたら、金曜日に本物がきた。  作者: つなかん


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第5話 Friday:静かな大人は、気づかれない熱を持つ

金曜日の朝。

 目覚めた瞬間、胸の奥がざわついていた。


 何か特別な予定があるわけでもない。

 でも、今日の空気はどこか違って感じる。

 曇り空なのに、やけに明るく見える。


(……航平さん、今日は早めに来るってお父さん言ってたな)


 その事実を思い出した瞬間、

 胸の奥で小さく跳ねる何かがあった。


「……落ち着け私。別に何でもないでしょ」


 自分にそう言い聞かせるように、

 髪を整え、コーヒーを淹れた。


 でも——

 コーヒーを飲む手が、ほんの少しだけ震えている気がした。


 夜七時半。

 「Bar Toyo」は、金曜日特有の静かな熱気に包まれていた。


 扉を開けた瞬間の湿った東京の夜風。

 近くの道路を走る車の音。

 全部がいつもより胸に残る。


 カウンターを整えていると、父が言った。


「航平、多分そろそろ来るぞ」


「え? もう?」


「今日は早く上がれたらしい」


 心臓が勝手に準備を始める。


 その瞬間——

 店の扉が、静かに、でも確かに押し開けられた。


 湿った夜風が少し流れ込み、

 外の街灯の光が長い影を床に落とした。


 そして、その影の主がゆっくりと姿を現した。


「……こんばんは」


 低く、落ち着いた声。

 空気を掠めるような静かな存在感。


 橘 航平。


 40歳の大人の男。

 黒のジャケットに、グレーのシャツ。

 派手ではないのに、目が離せない空気を纏っている。


 そのまっすぐな視線が、私を捉えた。


「美月。久しぶりだね」


「……あ、航平さん。こんばんは」


 急に胸が熱くなる。

 声が自然と小さくなってしまう。


 航平はふっと微笑んだ。

 大人の余裕が滲んだ、穏やかな笑顔。


「急に来たの、驚いた?」


「少しだけ……でも、うれしいです」


 そう言った瞬間、航平の瞳がわずかに揺れたように見えた。


(……あれ?)


 一瞬だけ息が詰まったような、

 説明できない空気が流れた。


 でもすぐに航平はいつもの落ち着いた表情に戻る。


「豊、少し早く来すぎたかな?」


「いや、ちょうどいいよ。……飲むか?」


「うん。美月、何かおすすめある?」


 私の方を見る。

 視線が合うたびに、胸の奥が不思議とざわつく。


「……今日は、少し甘めのカクテルとかどうですか?」


「いいね。美月が作るなら何でも飲むよ」


(……え)


 その言い方に、心臓が跳ねた。


「ま、またそんな……」


「本当だよ。美月の手つきは見ていて安心する」


 言葉が優しくて、温かくて。

 でも、どこか距離が近いように感じる。


 私はシェイカーを取りながら、息を整えようとした。

 でも、指先が少し震えてしまう。


(なんで……こんなに緊張するんだろう)


 シェイカーの中の氷が軽やかに跳ねる音。

 いつも通りの動作なのに、呼吸が浅くなっていく。


「美月」


「……はい?」


 顔を上げた瞬間、

 航平の視線と真正面にぶつかった。


 黒くて穏やかな眼差し。

 でも、その奥にほんのわずか——

 熱のようなものが見えた気がした。


「……無理しないで。ゆっくりでいいよ」


 声が低くて、優しい。

 その一言に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


(ゆっくり……って、何……?)


 言葉の意味を考える前に、

 胸の中で熱が広がっていく。


 カクテルを渡すと、航平は一口飲み、静かに息をついた。


「……美味しい。美月の味がするね」


「は、はい……?」


「落ち着いてて、優しい味」


 そう言って微笑む。

 心臓が静かに跳ね続けている。


 その時、父がからかうように言った。


「航平、お前のカフェの名前と一緒だな。“自分のペースで”だってさ」


「ああ……À mon rythme」


 航平はグラスを指で回しながら、

 ゆっくり私の方に視線を向けた。


「美月も、自分のペースでいいんだよ」


 その言葉は——

 なぜか、まっすぐ胸の奥に落ちていった。


 閉店前。

 航平は席を立ち、レジの前で止まった。


「また来るよ、美月」


「う、うん……」


「次は、ゆっくり話したいな」


 耳元ではないのに、

 その言葉が妙に近くて、甘く聞こえた。


 航平が店を出ていった後、

 私はしばらく息が整わなかった。


(……何、これ)


 胸が熱い。

 心臓が早い。

 顔が熱い。


 今まで、妄想の中のイケメンにドキドキしていたのに、

 “現実の誰か”にこんな反応をしたのは初めてだった。


「美月」


「な、なに」


 父がニヤニヤしている。


「お前……今日はいつもより可愛かったぞ」


「か、可愛いって……!」


「航平、気づいてたんじゃねえの?」


「やめてよそういうの!」


 でも、内心では分かっていた。


(私……今日、変だった)


 きっと航平も気づいた。


 そして金曜日の終わりに、私は思った。


(……もしかして私、

 航平さんのこと……)


 その先の言葉は、まだ言えなかった。

 でも、胸の奥に静かに灯った小さな光は、

 もう消せないものだった。


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