第38話 Friday Night:芦屋の回想──残された手紙と肖像画
「Bar Toyo」を出た瞬間、
夜風がストールの端を揺らした。
足早に歩くでもなく、
ただ静かに、ひとつ息を吐く。
(……美月ちゃん)
初めて会ったとは思えなかった。
あの目元も、笑い方も、
驚いた時の息の呑み方も。
(玲子さんに……似すぎている)
胸の奥に、ずっと閉じ込めていた痛みが、
また静かに顔を出す。
タクシーで自分のアトリエへ戻り、
ひんやりした室内に足を踏み入れた。
灯りを点けると、
壁に飾られた絵画の数々が淡い光を受けて浮かび上がる。
その奥──
広い画室の隅に、
ひっそりと覆布をかけられた一枚の額がある。
無意識のように歩み寄り、
そっと布を外す。
(……やはり、きれいだ)
そこにあったのは、
美月の母・玲子の若い頃の肖像画。
柔らかい光の中で微笑む彼女は、
まるで今も息をしているかのようだった。
芦屋は息を吸い、会話の記憶を呼び起こす。
(あれは……美月ちゃんが生まれて、数年たった頃だったな)
玲子は母になり、
豊と穏やかな家庭を築いていた。
その頃、
芦屋は友梨(玲子の姉)と結婚して数年。
しかし──
二人の間に子供はできなかった。
不妊治療もした。
病院にも通った。
友梨は涙を流し、
芦屋は背を向けて夜を過ごした。
すれ違いは増え、
会話は減り、
結婚は「名前だけ」の形へ変わっていった。
(父になれない……という事実が、思った以上に……重かった)
そんなある日。
芦屋はふと、つぶやいてしまったのだ。
『……美月ちゃんを、養女に迎えたい』
豊と玲子の家を訪れ、
美月が昼寝していたあの静かな午後。
ぽつりと漏れ落ちた言葉だった。
玲子は驚き、
そして──泣いた。
『芦屋さん……そんなこと、言わないで……
美月は……美月は、私たちの子なの』
泣きながら、
玲子は必死に説いた。
芦屋はすぐに気づいた。
(……自分がどれほど愚かで、
どれほど身勝手なことを言ったか)
玲子に似た子を育てたいという願いは、
「愛」ではなく「執着」だったのだと。
豊が激しく怒った理由も分かる。
『二度と……そんなこと言うな』
その表情は、
芦屋が生涯忘れられない怒りだった。
(……あれは、当然だな)
彼は自嘲気味に笑う。
しかし──
芦屋には芦屋の“傷”も残った。
誰の父にもなれず、
誰の家族にもなれず、
誰を愛しても、最後まで抱きしめきれず。
だからこそ、
指輪を外さない。
外せば、また踏み込んでしまうから。
(戒めだよ……全部)
黒田とは別の意味で、
芦屋もまた自分を縛り続ける大人だった。
肖像画の前で足を止め、
芦屋は見つめる。
「玲子さん……」
声に出すと、
胸の奥がひどく静かになった。
美月と話した時、
揺れた心を押さえるように、
画の前でゆっくり目を閉じる。
(豊は……この絵を見たら怒るだろうな)
そう、呟いた。
玲子が芦屋に残した“最後の手紙”。
そこにはこう書かれていた。
『あなたを嫌いになったわけじゃありません。
でも、美月のお母さんでいる私を……
これ以上揺らさないでください』
その字は、
震えていた。
(……あれを読んでなお、
俺は——線を引けないままだ)
ゆっくり布を戻し、
芦屋は画室の灯を落とした。
(美月ちゃん……会ってはいけない相手だったのに)
胸の奥で、
“過去”が静かに疼き続けていた。




