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妄想恋愛ばかりしていたら、金曜日に本物がきた。  作者: つなかん


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第37話 Friday:知らない名前が、胸をざわつかせる

 「久しぶりだね、豊さん」


 その声が、

 店内の空気を一瞬にして変えた。


 静かに扉が閉まり、

 新しい来訪者──芦屋が照明の下に姿を現す。


 長めのコート。

 落ち着いた色のストール。

 どこか都会的で、近寄りがたい雰囲気。


(……誰?)


 美月は息を飲んだ。


 豊は、眉をほんの少しだけ動かす。


「……生きてたのか、芦屋」


「ひどいな。死んだと思ってくれてた?」


 にこりともせず言い返すその声は、

 柔らかいのにどこか冷たい。


 そのやりとりが、

 明らかに“普通の常連ではない”ことを示していた。


(お父さんの……昔の知り合い?

 どういう関係?)


 胸の奥がきゅっと締まる。


 航平は無言だった。


 けれど、

 隣で感じる空気が変わっている。


 落ち着いているようでいて、

 どこかぴりついた緊張を抱えている気配。


(……航平さんも、この人知らないんだ)


 そう思うと、急に不安が強くなった。


 芦屋が店内をひと通り見渡す。


「変わらないね。照明も、カウンターも、酒の並びも」


「変える必要がなかっただけだ」


「そう……そういう店だったね、ここは」


 どこか寂しそうな言い方。

 まるで、思い出を撫でるような声。


(何……?)


 美月が知らない“Bar Toyo の空気”が漂う。


 そして芦屋の視線が、美月に落ちた。


「……君が、美月ちゃんか」


「えっ……?」


 なぜ名前を知っているの──

 と、声に出る前に豊が割って入る。


「おい、芦屋。勝手に探るな」


「探ってないよ。

 ただ……昔、聞いていたから」


 昔?


 何のこと?


 美月の胸がざわめく。


 豊がカウンター越しに腕を組んだ。


「で、なんの用だ。今日は客じゃねぇだろ」


「もちろん、客だよ。

 ……その前に、挨拶だけ」


「挨拶?」


「うん。君の娘さんに」


 芦屋はゆっくり歩み寄り、

 美月の前の席に座った。


(……近い)


 航平の視線が横でわずかに強くなる。


「初めまして。芦屋という。

 昔、豊さんに……世話になってね」


 丁寧なのに、

 底が読めない人だった。


「美月ちゃんに会うのは、ずいぶん前からの……楽しみだったよ」


「……え?」


 意味が分からなかった。


 けれど、

 航平がわずかに身体を前に出した。


(……守ってくれてる?)


 そう感じた瞬間、心が揺れる。


***


 豊が低い声で言った。


「……芦屋。余計なこと言うなよ」


「何も言ってないよ?」


「言おうとしてるだろ」


「さあ……どうだろうね」


 ふたりの会話は

 まるで、過去の火種を踏まないような慎重さ。


 知らない歴史が、このカウンターにあったのだと

 痛いほど感じた。


(お父さんと、この人……

 何があったんだろう……)


 美月の胸は不安でいっぱいになる。


 芦屋は、航平を見た。


「……君が、金曜日の人か」


「……?」


 航平の目が細くなる。


「噂でね。

 豊さんから……少しだけ聞いていた」


「豊さん」


 航平の声に、わずかに“苛立ち”が混じる。


 芦屋は微笑む。


「ふたりとも、いい顔してる。

 恋の匂いが濃い」


「……!」


 美月の頬が熱くなった。


 航平も、視線を一瞬そらした。


 突然現れた“過去の人”。

 誰も知らない空気を連れてくる人。


 その存在が、

 この店の夜を静かに揺さぶっていた。


「……さて」


 芦屋が立ち上がる。


「話の続きは、また今度にしよう。

 今日は、顔を見に来ただけだから」


「二度と来るなって言わねぇだけありがたく思え」


「ふふ、変わらないね。豊さんは」


 コートの裾がひらりと揺れ、

 扉に向かう。


 店を出る直前、

 芦屋はふと振り返り、美月に小さく言った。


「また、会おう。美月ちゃん」


(……なに、この人……)


 ドアベルが鳴り、

 夜の空気が戻ってくる。


 沈黙が落ちた。


 航平は静かに息を吐いた。


「……誰なんですか、今の人」


「言う必要ねぇよ。

 ただの昔の知り合いだ」


 豊は淡々と言う。


 けれど、その背中には

 “ただの知り合い”では済まない影があった。


(……どうしよう)


 胸がざわついたまま、

 落ち着く気配がない。


 さっきまでの甘い空気は、

 一瞬で霧散してしまったようだった。


 まだ何も言われていないのに──

 恋の続きを聞く前に、

 知らない影がすっと差し込んだ夜だった。


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