33話 Friday:触れたくて、でも止まれなくて
店の奥は静かで、
グラスを片づける音すら届かない。
その静けさの中で、
空気がひどく甘くて苦しい。
私と航平さんは、
向かい合ったまま一歩も動けなかった。
息遣いが聞こえる距離。
触れたら終わる距離。
逃げる理由なんてもうどこにもなかった。
「……美月」
呼ばれただけで、心臓がつかまれる。
いつもより低くて、
だけど優しさが滲んだ声。
「今日、店に入ってきたとき……
君、俺を見て少しだけほっとしたよね」
「っ……!」
図星すぎて目が泳ぐ。
ごまかしたくても、
彼の目が真っ直ぐで、逃げられなかった。
「隠さなくていいよ。
俺も……正直、同じだったから」
胸が熱くなる。
喉がぎゅっと締まる。
「美月が……ここにいてくれたら、
それだけで十分って思った」
静かに落とされた言葉なのに、
身体の奥が一気に熱くなる。
「あのね」
航平さんが少しだけ前に出た。
椅子がきゅっと軋む。
「今日、話したいって言ったのは……
なにか決めつけたいわけじゃないんだ」
「……はい」
「ただ……君がどう思ってるのか、
知りたいと思った」
この距離でそんなこと言わないでほしい。
胸が苦しすぎる。
「俺……君に近づきすぎてない?」
聞き方がずるかった。
優しいのに、逃げ道がない。
「……近い、です」
それしか言葉が出ない。
「嫌?」
「……嫌じゃない」
答えた瞬間、
航平さんが息を飲む音がした。
少しだけ、
ほんの少しだけ目を伏せて笑う。
「……よかった」
それだけで身体が熱くなるなんて、
自分でも驚いた。
「美月」
「……はい」
「君が、誰とも話していない時間を想像すると……
なんて言うんだろ……落ち着くんだ」
「え……?」
「水曜日とか……正直、嫌だった」
黒田さんのことだ。
胸が跳ねる。
「君が他の誰かに微笑むの、
見たくなかった」
「……そんな……」
胸の奥が甘く痛む。
黒田さんですら分かるほどの“好き”。
でも今、それを本人に言われるなんて。
「だから今日、ここに来るまで……
ずっと気持ちを整理してた」
整理?
何を?
聞けない。
でも聞きたい。
ぐちゃぐちゃのまま呼吸が浅くなる。
「美月、もし……」
その“もし”の続きが、
怖くて、でも聞きたくて。
心臓が苦しいほど脈打っていた。
「もし、俺が……君に近づこうとしても……
逃げない?」
息が止まった。
触れられそうな距離まで来て、
その質問は反則だ。
手が震える。
でも——
「逃げ……ないです」
言った瞬間、
航平さんの目が静かに揺れた。
優しさと、
大人の余裕と、
抑えてきた想い全部が混ざった色。
「……そっか」
その声が、
私の心を完全に崩した。
呼吸が追いつかない。
「ほんとに、逃げないんだね」
「逃げ……ません……」
小さく言ったら、
航平さんがゆっくり深く息をついた。
まるでずっと張りつめていた何かを
解いたみたいに。
「美月」
優しく名前を呼ばれた瞬間、
胸の奥で何かが崩れ落ちた。
ここから――
一歩踏み込まれる。
その気配がはっきりと伝わった。




