32話 Friday Night:言葉になる前の想いが、一番強い
店内の空気が、
まるで時間だけが静かに止まったようだった。
カウンター越しに向かい合う美月と航平。
豊は奥で静かに片付けをしていて、
会話の邪魔をしない距離を保ってくれている。
でも——
二人の間には豊の気配すら入れないほどの、
濃い、濃い空気があった。
航平の視線が、
美月の瞳にゆっくり吸い込まれるように落ちていく。
美月はカウンターの上にそっと手を置いた。
その指先がわずかに震えているのを、
航平は見逃さなかった。
「……緊張してる?」
声は静かで、優しくて、
でもどこか押し寄せるような熱があった。
「……してない……です」
美月が小さく答える。
けれど、その声は少しだけかすれていた。
その瞬間、航平の口元が
かすかに緩んだ。
「嘘つくとき、君……声が少し揺れるよね」
「っ……!」
顔が一気に熱くなる。
「別に責めてないよ。
……その揺れが、俺は好きなんだと思う」
その言葉の“好き”は、
決して軽い、曖昧な好きではなかった。
美月はカウンターの端を握りしめて、
逃げないように自分を支える。
「……あの……」
声にならない声で、
何かを言おうとした時——
航平が一歩、近づいた。
ほんの少し。
でも、世界が震えるほどの距離の変化。
カウンターの上で、
航平の手が美月の手の、
“触れない位置” に静かに置かれる。
触れない。
触れてないのに。
触れているよりも熱い距離。
「……美月」
呼ばれた瞬間、
美月は息を呑んだ。
その声が、
あまりに優しくて、
あまりに真っ直ぐで——
逃げたくないのに、
逃げ出したくなるほど怖かった。
「今日……話したかったのはね」
航平の声は落ち着いているのに、
その奥にある感情の熱だけが
静かに、強く響いてくる。
「君と話すと……
自分でも驚くくらい、余裕がなくなるんだ」
美月の胸が大きく揺れる。
「落ち着いていられない。
距離を取ろうとしても、取れない。
近づきすぎるのが怖いのに、
近づかずにはいられない」
その告白めいた言葉に、
美月の心がきゅっと跳ねる。
「……どうして、ですか」
震える声。
でも逃げない瞳。
航平はゆっくり、美月を見つめた。
「理由なんか……
もうとっくに決まってる」
その言い方が、
美月の鼓動をさらに速くする。
「でも……言うのはまだ早い気がして。
君の気持ちをちゃんと知ってからじゃないと、
俺は……前に進めない」
「……私の……気持ち……?」
「うん」
息が触れそうな距離。
沈黙が甘く張りつめる。
そして——
航平は少しの間、目を閉じて息を整えた。
「……今日、ちゃんと伝えようと思って来た」
「……!」
「でも、今……こうして向き合ってみると……
言う前に、君の気持ちをもっと知りたくなる」
じっと、美月を見る。
逃げられない視線。
「美月。
君は……俺のこと、どう思ってる?」
その瞬間、
美月の心臓が一気に跳ね上がった。
逃げ場のない質問。
でも、逃げたくない。
息が震え、
胸が痛いくらい熱くなる。
それでも美月は——
ゆっくりと、言葉を探すように口を開いた。
「……どう思ってる、なんて……」
目が潤む。
でも視線はそらさない。
「……分かる……でしょ……?」
その一言で、
航平の表情が確かに変わった。
甘く、
苦しく、
嬉しさを隠せないような目。
「……美月」
それは名前を呼んだだけなのに、
抱きしめられたみたいに胸が熱くなる声だった。
二人の距離が、
触れる寸前まで近づいて——
でも、まだ触れない。
触れる前の緊張が、
一番甘くて一番苦しい時間を作り出していた。




