第31話 Friday Night:扉が開いた瞬間、空気がひとつ動いた
金曜日の夜八時。
「Bar Toyo」は、週末にしては珍しく静かだった。
柔らかい照明と、
グラスを磨く音だけが店内に響く。
美月は落ち着かない指先を隠すように、
何度もバータオルで手を拭っていた。
豊はその様子を見て、
何も言わずに軽く笑うだけだった。
(……今夜、来るんだろう)
そんな空気がカウンターの奥に漂っている。
時計の針が、ゆっくりと八時半を指したころ——
カラン、と
静かな音が店の空気を揺らした。
扉が開き、夜風がひとすじ流れ込む。
その風に混じって、
落ち着いた足音が近づいてくる。
黒のジャケット。
白いシャツ。
ほんの少しだけ濡れた前髪。
橘航平。
いつものように静かに、
でも今夜はどこか急ぐように。
美月の視線が吸い寄せられるのを、
豊は横でしっかり感じていた。
「いらっしゃい」
豊の声に、航平は軽く頭を下げる。
「こんばんは、豊さん」
その声は落ち着いているのに、
どこか抑えきれない熱を含んでいた。
航平の視線が自然と美月を探し、
美月の視線もまた同じ場所を見つめていた。
一瞬で、
ふたりだけの時間がそこにできあがる。
航平はいつもの席には座らなかった。
カウンターに手を置き、
美月の前に立つようにして言葉を落とす。
「……昨日の月も、綺麗だったね」
静かで、甘くて、
わずかに“確かめるような色”を含んだ声。
美月の肩が小さく震え、
胸の奥が熱くなるのを隠し切れない。
豊はグラスを拭きながら、
何も言わずにその空気だけを受け止めていた。
店内の照明が柔らかく揺れ、
外の風がひとすじ通り抜ける。
それだけで、
恋が静かに動き出したことが
誰にでも分かるようだった。
豊は
「……さて、忙しくなるかな」
と心の中で呟きながら、
カウンターの奥へと静かに下がった。
ふたりの間に生まれた空気は、
もう誰にも割って入れないものになっていた。




