第29話 Friday:開店前、恋が胸で暴れる
金曜日の朝。
目を覚ました瞬間から胸がざわめいていた。
(……今日、会える)
その一言が胸の奥で繰り返し響いて、
息が深く吸えない。
布団の中で丸くなりながら、
昨日の父の言葉を思い出す。
『明日、焦るなよ』
(……焦るよ。絶対、焦えるよ)
でも、焦りたくない。
ちゃんと向き合いたい。
航平さんの“話したい”は——
逃げちゃいけないものだと分かっていた。
支度をしながら、鏡を覗く。
(……顔がいつもより柔らかい気がする)
恥ずかしくて目をそらしそうになるけど、
どこか嬉しかった。
髪を整えながら、胸の奥がぎゅっとなる。
(今日……どんな顔して会えばいいんだろう)
恋の準備なんて、どうしたらいいか分からない。
店に着くと、
父・豊がもうカウンターに立っていた。
「おはよ」
「……おはよう」
声が少し震えてしまった気がする。
豊はちらりと美月を見て、
ゆっくり微笑んだ。
「緊張してんな」
「……してない」
「嘘つけ。半分夢遊状態みたいな歩き方してたぞ」
「し、してないってば!」
言うたびに、心臓が跳ねる。
開店前の準備をしながら、
カウンターの奥の小さな時計を見てしまう。
(時間、ゆっくり過ぎて……)
早く来てほしい。
でも早く来られたら困る。
気持ちはずっと矛盾していて、
胸の奥が忙しい。
グラスを磨く手が震えて、
父がクスっと笑った。
「……美月。今日は落とすなよ」
「おとさない!」
「自信なさげだな」
ああもう……
今日のお父さんはいつもより容赦ない。
でもその口調は柔らかい。
(……応援してくれてるんだ)
それだけで胸がじんとした。
カウンターの下でこっそり、お守りに触れる。
(山崎さん……ありがとう)
このお守りがあるだけで、
少しだけ心が落ち着く。
でも、すぐ胸はバクバクし始める。
(だって……今日、言われるんだ)
航平さんが、
“ちゃんと気持ちを伝えたい”と言っていた日。
(私も……ちゃんと言わなきゃ)
怖い。
でも逃げたくない。
美月は小さく息を吐いた。
「……頑張ろう」
自分に言い聞かせる声が震えている。
開店まであと一時間。
店内には静かな空気が漂っている。
照明が灯り、木の匂いが優しく香る。
ここに、
今夜“彼”が来る。
そう思うだけで、全身が熱くなる。
(どんな顔して来るんだろう……)
金曜日の航平さんはいつもより少しカッコよく見える。
いや、いつもカッコいいんだけど。
(今日の私は耐えられるの……?)
胸が痛いほど高鳴る。
その時、豊がふっと声をかけた。
「美月」
「なに……?」
「無理に笑うなよ」
「……え?」
「笑おうとすると、逆に緊張がバレる」
「っ……!」
「自然でいろ。
あいつは、お前の自然な顔が一番好きだ」
「やめて~~~!!」
全身の血が一気に上がってくる。
豊は軽く笑いながら、
それ以上は何も言わなかった。
(……自然な顔って……どんな顔?)
そんなことを考えながら、
美月はそっと胸に手を当てた。
(……会いたい)
恋の温度が、
開店前の静けさの中でゆっくり、でも確実に上がっていく。
金曜日の夜が、
もうすぐ始まろうとしていた。




