第26話 豊サイド:指輪に宿る“意味”を知っている男
黒田が店を出ていったあと、
静かになったカウンターの奥で、豊はひとりグラスを拭いていた。
扉のベル音が遠ざかっていく。
「……指輪か」
ふっと笑いながら、
ゆっくり視線を落とす。
黒田がカウンターで薬指の指輪をなぞった瞬間——
豊は、つい言ってしまったのだ。
『黒田、お前はさ……
一度くらい、その指輪 外してみたら どうだ?』
あのときの黒田の一瞬の“揺れ”。
豊は見逃さなかった。
『外せって言ってんじゃない。
“意味”を見つめ直してみろってことだよ』
黒田は苦笑していた。
でも——
本当は苦笑では隠しきれないものがあった。
豊はひとり、
バーの照明を少し落とした。
誰もいない静かな店内。
木のカウンターを指先で軽く叩く。
(黒田……あいつも、悪い男じゃねぇんだよな)
職業柄、
豊は常連の“心の動き”にすぐ気づく。
黒田が美月を見る目。
あれは遊びの男の目じゃない。
ただ、
彼の薬指にあるリングは——
彼の心のほんの一部だけを縛っていた。
(あいつは……まだ、区切りがついてねぇ)
奥さんのことか。
愛人のことか。
あるいはもっと深い過去の誰かか。
黒田の指輪が何を象徴しているか、
豊は直接聞いたことはない。
だが、
“重さ”だけははっきり分かる。
豊はタオルを置き、
カウンターに手をついた。
(あいつ……自分の幸せを後回しにしてる顔だ)
黒田の“余裕”は、
本物の余裕じゃない。
人を傷つけないための距離。
自分が深入りしないための余裕。
そして——
あえて“人たらし”に見えるようにしている皮肉。
豊は、そんな大人の事情が嫌いじゃなかった。
「黒田……」
静かに名前を呟く。
「お前はずっと……あの指輪に守られてるだけだよ」
守られるというより——
縛られている。
そんな言葉が正しい。
豊はカウンターに腰を下ろし、
店内に溶けるような声でひとりごちた。
「いつかさ……
お前、自分で気づくだろ」
もし指輪が“過去”を象徴しているなら——
向き合ったほうがいい。
もし指輪が“誰かへの罪悪感”に続いているなら——
許す時が来る。
もし指輪が“逃げ道”になっているなら——
外して、自分の道を選ぶ時期だ。
「意味を……ちゃんと見つめられる日が来る」
それが黒田のためでもあり、
黒田と関わる誰かのためでもある。
豊はふっと笑った。
「……あいつも、俺も……
人のこと言えねぇけどな」
亡くなった妻のことを思い出す。
自分にとって指輪が“意味”を持ち続けているように、
黒田にもきっと何かがある。
ただ違うのは——
豊はもう前を向いている。
そして美月も、
ゆっくりだけど確実に前へ進んでいる。
(黒田は……まだ途中だ)
遠い道の途中で立ち止まっている男。
そんな印象だった。
照明を落としたバーの中で、
豊は掃除用のタオルを手に取り、静かに言った。
「黒田……
お前もいつか、誰かを本当に愛せるよ」
誰か——
それが美月だろうと他の誰かだろうと関係なく。
黒田が胸の奥にかけている“鍵”を外せる日が、
いつか来る。
そんな未来を、
豊は少しだけ願っていた。




