第3話 Wednesday:危険な香りは、だいたい既婚者
水曜日の朝。
雨上がりの湿った風が窓の隙間から流れ込んできて、
なんとなく肌にまとわりつく。
こういう日は、なんとなく気持ちまで重くなる。
ゆっくり起き上がって伸びをしながら、昨日のことを思い出した。
(……食いしん坊彼氏枠の山崎さん。
ちょっと優しかったのに、最後は“もっと似合う人いるよ”って……)
あれ、意外と効いている。
私は気づかないふりをしているだけで、本当は——
恋愛の言葉に弱い。
優しくされると、すぐ期待してしまう。
「……強くなりたいなぁ」
そんな呟きが、湿った空気に溶けていった。
夜八時。
「Bar Toyo」は、水曜日だけ少しざわつく。
理由はひとつ。
“危険な香りのお客様”が来るから。
店の扉が開いた瞬間、その気配が空気を変えた。
「やあ、美月ちゃん。今日も可愛いね」
軽い口調だけど、声は落ち着いている。
大人の余裕と、少しだけ漂う危うさ。
彼の名前は—— 黒田。
スーツの襟元から覗くネイビーのシャツ。
指先まで手入れされたような雰囲気があって、
香水の甘い匂いが一歩遅れて流れてくる。
まさに、妄想の敵になりそうなタイプ。
(ああ……今日も危険……)
心の中でそう呟きながら、笑顔で迎える。
「黒田さん、いつものジントニックでよろしいですか?」
「うん。君が作るやつが一番好きだからね」
さらりとそう言ってグラスを指先で回す姿が、
つい“ドラマの悪い大人”に見えてしまう。
(こういうタイプに、優しく抱き寄せられて、
「今日は俺のところに来ない?」なんて言われたら……)
妄想のフィルターが勝手に発動する。
距離が近い。
黒田さんはいつも、距離を詰めるのが上手い。
見つめられると、呼吸が浅くなる。
「美月ちゃんってさ、誰かいい人いないの?」
「え、えっと……」
「こんな可愛くて、気がきくのに」
すぐに返せない。
胸がざわつく。
でも次の瞬間、黒田さんは指先で自分の薬指を軽く触れた。
「……まあ、俺は既婚者だから、応援くらいしかできないけどね」
「……っ」
(ほらーーー!!!!
こういうタイプは、絶対既婚者なんだよ!!)
内心で頭を抱えたくなった。
危険な香りは、だいたい何か理由がある。
だから私は現実で恋ができないのだ。
その時、父が黒田さんの席に近づいて言った。
「黒田さん、そろそろ終電の時間じゃないですか?」
「はは、豊さんには敵わないな。
でも……また来るよ、美月ちゃん」
軽い笑みを残して帰っていった。
扉が閉まる音がして、店内が少し落ち着く。
「美月、ああいうタイプは気をつけろよ」
「分かってるよ……」
「優しい言葉をくれるからって、真に受けるな。
お前はすぐ妄想に走るんだから」
「……うぅ……」
反論できない。
父の言うとおりだ。
「でもさ、美月」
「なに?」
「金曜日には、ちゃんとまともな大人が来るから安心しろ」
「まともな大人?」
「航平だよ。
お前の妄想とは真逆のタイプだろ」
父は少し笑って、グラスを磨いた。
「美月が気ままに生きてるの、航平は案外好きそうだけどな」
「え? なんで?」
「いや、なんとなく」
(なんとなく、で言わないで……)
でも父の言葉が、なぜか心に引っかかった。
閉店後。
雨上がりの東京の夜は、アスファルトに光が反射してきれいだった。
帰り道、私はひとりで考えていた。
(……金曜日、航平さんか……)
子どもの頃から知っている人。
優しくて落ち着いた、大人の男性。
(……恋愛対象には、ならないよね……普通)
そう思ったはずなのに、
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
「……何これ」
理由が分からないまま、
私は家の鍵を回した。
水曜日の夜は、静かに終わっていく。
——金曜日に、人生が変わるなんて思いもしないで。




