第24話 Wednesday:大人の余裕と、静かな影
水曜日の夜。
「Bar Toyo」は、いつもより照明が少しだけ柔らかい。
この雰囲気は——
水曜日の“彼”が来る日だからだ。
ドアのベルがゆっくり鳴った。
カラン……
「こんばんは」
落ち着いた低い声。
黒田さん。
仕事終わりのスーツに、
ネクタイを少しだけ緩めた余裕のある姿。
(……今日も来た)
そう思った瞬間、
胸のどこかが静かにざわめいた。
お父さん——豊が軽くうなずいて迎える。
「お疲れさん、黒田」
「やぁ、豊さん。今日も寄ったよ」
黒田さんは、
いつもの席ではなく、わざと一つ空けた席に座る。
美月とは距離を取りつつ、
でも届く距離は保つ。
その絶妙さが“人たらし”だと感じる。
「ジントニックをお願いします」
必ず“最初の一杯”はそれ。
黒田さんのルーティン。
「はい、ジントニックですね」
美月が氷を入れ、トニックを注ぎ、ライムを落とす。
その手元を、黒田さんは静かに見つめていた。
「……今日も綺麗に作るね。美月ちゃん」
「え、あ……ありがとうございます」
その一言ですら、
大人の余裕が滲む。
言葉に軽さはあるのに、
本気にも見える。
遊びにも見える。
でも——
美月はそれに惑わされなくなっていた。
(だって……金曜日があるから)
黒田さんが、
ジントニックの一口目を飲んで微笑む。
「はー……今日の一杯は沁みるね」
その表情が妙に艶っぽくて、
美月は一瞬だけ目をそらしてしまう。
豊がカウンターの内側から笑う。
「黒田、今日は機嫌いいな?」
「ん? まぁね」
黒田さんは、
ウイスキーの瓶に手を伸ばす前に
薬指の指輪をさりげなくなぞった。
その仕草を、美月は知っている。
(……奥さんのことかな)
そして——
もう一つ意味があることも。
(愛人がいるって……お父さん言ってたな)
家庭の空気。
裏の顔。
その全部を“余裕”という服で包んでいる大人。
だからこそ、
黒田は危険だ、とお父さんが言っていた。
ジントニックを飲み終えると、
黒田さんはグラスを置いて言った。
「次、いつもの。
ロックで頼むよ」
「はい、ウイスキーですね」
氷が静かに音を立て、
琥珀色がグラスに満ちていく。
黒田さんはそれをじっと眺めながら、ふっと笑う。
「……美月ちゃん、最近いい顔してる」
「えっ……?」
「日曜日の女の顔じゃない。
誰か……金曜の男でもできたのかな?」
瞬間。
胸が跳ねた。
「な、何も……!」
「隠せないよ、そういうの」
黒田さんはウイスキーを一口飲み、
優しくため息をついた。
「……いいね。
恋してる子の顔って、ほんと綺麗だ」
嬉しいのか、恥ずかしいのか分からない。
ただ——
航平さんの顔が頭に浮かんだ。
(……金曜日)
その瞬間、黒田さんは目を細めて言った。
「……あぁ、やっぱりね。
今、その人の顔した」
「っ……!」
「いいじゃない。
好きなら、そのまま行けば」
黒田さんは大人の声で、
美月の心を揺らすように言葉を続けた。
「誰かのものになる前に、捕まえておきなよ。
恋って……置いていけば消えるものだから」
その言葉は
少し寂しげで、少し重たかった。
奥さんのことか、愛人のことか。
それとも自分自身の経験か——
美月には分からない。
でも、
その言葉には嘘がなかった。
帰り際。
「美月ちゃん」
「はい」
「……幸せになるんだよ」
その声はいつもの軽さではなく、
深い余裕と影をもちながら、温かさもあった。
「……ありがとうございます」
「金曜日、楽しみにしてる顔だね」
からかうように笑って、
黒田さんは扉を押した。
ベルが鳴り、
夜風と一緒に黒田さんの影が消える。
豊がふっと笑って言った。
「……あいつ、何やってんだか」
「え……?」
「お前の顔見て安心したんだろ。
“もう俺の出る幕じゃないな”ってな」
その言葉に、
美月の胸が熱くなる。
(……金曜日)
もう一度、
胸の奥でそっと呟いた。
(早く……会いたい)
黒田が帰ったあとの静かな店に、
その想いだけが温かく残った。




