第108話 受け継がれるもの
展示室の奥は、ひときわ静かだった。
母の絵を前にしてから、
誰も多くを語らず、
それぞれが、それぞれの想いと向き合っていた。
美月は、しばらく迷うように手にしていたものを、
胸の前でぎゅっと抱きしめる。
——あの、絵本。
幼い頃、母が何度も読んでくれた。
声の抑揚も、ページをめくる音も、
今でも、はっきり思い出せる。
意を決したように、
美月は芦屋の前に一歩進み出た。
「……これ」
差し出された絵本を見て、
芦屋の目が、ほんの一瞬だけ大きく見開かれた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……まだ、残っていたんだ」
芦屋は、表紙にそっと指を触れた。
指先が、ほんのわずかに震えている。
「友梨が……好きだった絵本だ」
低く、懐かしむような声。
「それに、玲子もね。
“いつか、この本を読む日が来たらいいね”って」
芦屋は、苦く微笑んだ。
本当なら。
本来なら。
——自分と友梨の間に、子どもが生まれた時。
その子に、渡すはずだった絵本。
夜、眠る前に。
小さな手を握りながら。
そんな未来を、
確かに思い描いていた時期があった。
けれど、
それは叶わなかった。
別々の道を選び、
渡す相手を失ったまま、
絵本だけが、時間の中に取り残された。
「……」
芦屋は、しばらく黙って絵本を見つめ、
それから静かに言った。
「こうして、君の手に渡っていたなら……
それも、悪くない」
美月は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
自分が生まれたことで、
誰かの“叶わなかった未来”があったこと。
でも同時に、
その想いを、こうして受け取っていること。
豊が、少しだけ前に出る。
「……玲子はな。
きっと、最初から分かってたんだ」
「何を?」
「この絵本も、絵も。
誰かの“代わり”じゃなく、
ちゃんと“繋がる先”があるってことを」
芦屋は、小さく笑った。
「相変わらずだな、豊。
……優しい解釈をする」
「事実だろ」
二人のやりとりを、
美月は黙って聞いていた。
——受け継がれるものは、
血だけじゃない。
想いも、時間も、願いも。
そして今、
自分はそれを知る側に立っている。
芦屋は、絵本をそっと閉じ、
美月に返した。
「これは……君が持っていなさい」
「……いいんですか」
「ああ。
今は、もう“過去の約束”じゃない。
“君の記憶”だから」
美月は、深く頷いた。
胸に絵本を抱きながら、
もう一度、母の絵を見る。
抱かれている小さな自分。
その表情は、何も知らず、
ただ、安心しきっている。
(……お母さん)
あなたは、
こんなにもたくさんの想いを残して、
私を生きさせてくれたんだね。
展示室には、
言葉にならない静けさが満ちていた。
それは、喪失ではなく、
確かに「受け継がれた」証のような夜だった。




