第107話 母性という名の絵──渡されなかった理由
人の気配が遠のいた静かな空間で、三人はその絵の前に立っていた。
柔らかな光の中に描かれているのは、ひとりの女性。
玲子。
そして、その腕の中に抱かれた幼い美月。
声も、説明もいらないほど、
そこには“守る”という行為そのものが描かれていた。
美月は、しばらく言葉を失ったまま絵を見つめていた。
(……私、こんなふうに……)
母の腕の中で、安心しきった顔。
自分がこんな表情をしていたことすら、知らなかった。
隣で、豊が静かに息を吐く。
「……完成したんだな」
それは確認というより、
長い年月を越えてようやく届いた事実を受け止める声だった。
芦屋が、少しだけ肩をすくめて笑う。
「意地悪だと思ってるだろ?」
豊が視線を向ける。
「……正直、な」
芦屋は小さく笑い、絵から目を離さずに続けた。
「でもな、豊。
描きたかったのは“玲子の女の顔”じゃない」
その言葉に、空気がわずかに張り詰める。
「母性だよ。
誰かを愛して、守って、離さないと決めた顔だ」
芦屋は一度だけ、豊を見る。
「だから、お前を描かなかった。
意地悪じゃない。
……描けなかったんだ」
豊は何も言わなかった。
ただ、絵の中の玲子を見つめている。
芦屋は、少しだけ声を落とした。
「俺はずっと勘違いしてた。
玲子がこの絵を頼んだのは、自分自身を残したかったからだと」
指先で、絵の縁をなぞる。
「でも違った。
“渡したくないもの”“離したくないもの”を描いてほしかったんだ」
その視線が、美月へ向く。
「……美月も一緒に、な」
豊の肩が、わずかに揺れた。
「……初めて聞いた」
絞り出すような声。
芦屋は苦笑する。
「言わなかった。
言えなかった。
完成させられなかったから」
静かな沈黙。
その中で、美月が一歩前に出た。
絵を見つめるその背中は、
もう“子ども”ではなかった。
「……私」
声が震えそうになるのを、深呼吸で抑える。
「この絵、
“娘だから”泣いてるんじゃないです」
二人が、同時に美月を見る。
「母が、誰かを守る人だったって知って……
それが、すごく……誇らしいんです」
少し笑って、続けた。
「だから、大丈夫です。
私はもう、ちゃんと大人ですから」
その言葉に、豊は目を伏せた。
芦屋は、ゆっくりと頷く。
「……ああ。
だから今、完成させられたんだ」
時間が必要だった。
三人ともが、それぞれの場所で“向き合える”ようになるまで。
母性という名の絵は、
ようやく、受け取る人の前に置かれたのだった。
静かな展示室で、
三人はもう一度、同じ絵を見つめた。
それぞれの立場で。
それぞれの“今”として。




