第106話 個展の日──母の絵の前で
土曜日の昼前。
三人は、同じ電車に揺られていた。
豊、美月、航平。
会話は少ない。
けれど、沈黙が重たいわけではなかった。
美月は窓の外を見つめながら、胸の奥に小さな波紋が広がっているのを感じていた。
(……お母さんの、絵)
昨日、父から聞いた話。
そして、絵本に挟まれていたあのメモ。
まだ整理しきれていない気持ちが、心の中で静かに揺れている。
隣に座る航平は、いつもより口数が少なかった。
ただ、ときどき美月の方をちらりと見て、何も言わずに視線を戻す。
その距離感が、今はありがたかった。
ギャラリーの前に立つと、豊が一歩だけ前に出た。
「……ここだ」
白い外壁。
静かな通りに溶け込むような建物。
入口の扉が開き、ひとりの男が姿を現す。
「来たな」
芦屋健司だった。
以前バーで見たときよりも、どこか表情が柔らかい。
けれど、その目の奥には変わらない静けさがあった。
「……久しぶりだな」
豊が短く言う。
「本当に」
芦屋はそう返してから、視線を美月へ向けた。
「……大きくなったな」
それだけ。
懐かしさでも、感傷でもない。
事実を確かめるような、静かな声だった。
美月は小さく頭を下げた。
「……こんにちは」
それ以上の言葉は、まだ出てこなかった。
「中へどうぞ」
芦屋が扉を開ける。
展示室の空気は、しんと静まり返っていた。
壁に並ぶ絵の中で、
その一枚だけが、明らかに違う気配を放っていた。
美月は、足を止める。
息を吸うのを忘れたように、立ち尽くす。
そこには——
若い母が描かれていた。
柔らかな表情で、腕の中に赤ん坊を抱いている。
(……私)
間違いなかった。
母に抱かれている、小さな美月。
「……これが」
声にならない声で、美月が呟く。
豊は何も言わず、少し後ろに立っている。
航平もまた、美月の背中を静かに見守っていた。
「玲子が、どうしても描いてほしいと言った」
芦屋の声が、展示室に落ちる。
「“この時間だけは、形に残したい”と」
美月は、絵から目を離せない。
母の腕の温度まで伝わってきそうで、
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……知らなかった」
「だろうな」
芦屋は淡く笑った。
「完成させるのに、時間がかかった。
だが……今なら、描けた」
その言葉の意味を、美月はまだ完全には理解できない。
けれど——
この絵が、過去と今をつなぐものだということだけは、はっきりと分かった。
航平が、一歩だけ近づく。
「……美月」
名前を呼ぶだけで、問いかけはしない。
美月は、ゆっくりと息を吐いた。
「……お母さん、綺麗だね」
その言葉に、豊が初めて小さく頷いた。
「……ああ」
母の絵の前で、
三人はしばらく、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
それは終わりではなく、
美月が“知る側”へ進むための、最初の一歩だった。




